ブルーノ・タウト  Bruno Julius Florian Taut

ブルーノ・タウトは、ドイツ東プロイセンケーニヒスベルク生まれの建築家都市計画家。鉄の記念塔(1913年)、ガラスの家(1914年)が評価され、表現主義の建築家として知られる。1933年、ナチスの迫害から逃れるため海外に滞在先を探していた際に、前年にあった上野伊三郎率いる日本インターナショナル建築会からの招聘を受け入れ、1933年に来日し3年半滞在した。日本では建築設計の仕事を得られなかったことから、トルコ政府の招きにより転地し、1938年に当地で没した。

【鉄の記念塔・鉄のモニュメント】

1913年にライプツィヒ国際建築博覧会での「鉄の記念塔」を発表して、表現主義の代表的な作品として知られている。4段のピラミットの上に球体を載せ全体として鉄という素材が出うるエレガントな表現をアピールしている。

【 ガラスの家 】

1914年にはケルンで行われたドイツ工作連盟の展覧会に「ガラスの家」を出展、「ガラス・パヴィリオン(グラスハウス)」は表現主義の代表的な作品とされる。高い台座の上に様々な色のガラスをモザイク的にはめ込んだドームがのる。​ガラスブロックを透過する光を浴びながら階段を上っていく。その表現力も仕上げの技術もアールヌーヴォーのガラス工芸品に近い。

【 アルプス建築 】

1918年に起草、翌年に出版した画帖『アルプス建築』は実際には実現不可能な建築物(アルプス山中にクリスタルの建築を建てようとするユートピア構想のイメージ図で、ニーチェの『ツァラトゥストラはこう語った』の下山のシーンから影響を受けていることが知られている。「アルプス建築はタウトが1919年に発表した壮大な建築プラン。アルプスの山頂、谷間にクリスタルの大伽藍を建設しようという大きな夢の塊で、表現主義の建築家としての彼の真骨頂を示したヴィジョンだ。もちろん、規模の点でも実利のなさという面でも実現は不可能であることを作った本人がよく分かりながら書いた夢の建築。タウトは若い頃、絵の道に進むか、それとも建築家になるかでかなり迷ったという。その彼が画才を発揮した作品でもある。

【 色彩宣言 】

建築物はすべて色彩を持たねばならないと主張して、マクデブルク市庁舎やオットーリヒター通りの集合住宅に彩色を施した。さらにこのマクデブルク時代に『曙光』『都市の解体』を出版、特に後者は世界的にも広く読まれ、日本でも分離派の建築家に好んで読まれた。ブルーノ・タウトの建築は色使いが素晴らしい。壁面も窓も、あらゆる建築的要素が色彩を軸に造作され、それらは陽光に照らされながら、まるでひとつの有機体のように、常に異なった様相を見せてくれる。

【 ジードルング 】

その後タウトは1924年ベルリンに戻って、住宅供給公社ゲハークの主任建築家になった。当時、ドイツは第一次世界大戦で敗戦国となり、様々な工業製品を作ることで賠償金を支払っていた。このため労働者は劣悪な環境下で働いており、ベルリン労働者住宅監獄のようであった。この次期、タウトは主任建築家として労働者の健康を考慮したジードルング集合住宅)建設に注力し、1924年から1932年までの間にジードルング1万2千戸の設計を行った。タウトは、1924年から携わったブリッツのジードルングで国際的な評価を受けた。この間にタウトが設計した建築物のうち、シラーパークのジードルングベルリン市ブリッツの馬蹄形住宅カール・レギーンの住宅都市は、ベルリンのモダニズム集合住宅群の1部として2008年世界遺産(文化遺産)に登録されている。

・ジードルング・シラーパーク・ヴァイセ・シュタット・グロースジードルング・ブリッツ・ガルテンシュタット・ファルケンべルク

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