全国ケンコミ建築設計研究所
建築の基本要素の概念
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西洋建築史Ⅰ-古代
~ 建築の始まり ~
古代ギリシア人によって創造された建築様式である。特に神殿建築は代表的であり、古典主義建築の直接的、間接的規範とされ続けた。空間よりも細部の装飾や比例原理を洗練させて自己完結していく傾向にあり、現代の美術的な感覚からすれば、建築よりもむしろ彫刻に近い。やがてこれらがローマ建築に継承された。宗教次式は神殿の正面の広場で行われる。
古代ギリシア時代にアテナイのアクロポリスの上に建設された。パルテノン神殿の正面全貌は各要素ともども黄金長方形で囲われている。上に向かうにつれ大きくなる円柱のわずかな膨らみのエンタシスがほどこされている。柱はドリス式オーダー。
◆ローマ建築 古典主義建築
古代ローマの文化、芸術を代表する建築様式。共和政ローマ、そしてローマ帝国の支配地域に広く残る遺跡と、ウィトルウィウスの残した『建築について』の存在により、ルネサンスに始まる古典主義建築の源泉となった。てギリシア建築の影響を受けつつ発展していった。神殿やバシリカなどを包含したフォルム、円形闘技場、公共浴場などの公共施設が想起される。ローマ水道は水道を架けるためのアーチ、建築物の天井を覆うヴォールト、ドーム、橋などの優れた土木・建築工学は、古代ローマの文化水準の高さを物語っている。
■パンテオン
円堂と半球形のドームが載った構造。頂上部分にはオクルスと呼ばれる採光のための直径9メートルの開口部があり。この象徴的な空間性はキリスト教の聖堂となる。
古代ローマで建築された水道。ローマ水路とも。古代ローマでは、都市や工場地に水を供給するために、数多くの水道が建設された。代表的建築はフランスのポン・デュ・ガール。、古代ローマ時代・紀元前19年頃にアウグストゥス帝の腹心アグリッパの命令で架けられた。
4階建てで、アーチは各層で様式が変えられており、1階はドリス式、2階はイオニア式、3階はコリント式になっている。天井部分は開放されているが、日除け用の天幕を張る設備があった。初期においては競技場にローマ水道より引いた水を張り、模擬海戦を上演することさえ可能だった。
ポルトゥヌス神殿はイタリアのローマにある古代の建築物で、ポルトゥヌス神に捧げられた神殿である。イオニア式の建築。4柱式のポルチコと内陣 からなる四角い建物で、階段つきの高い壇の上に建てられている。
東ローマ帝国(ビザンツ帝国、ビザンティン帝国)の勢力下で興った建築様式である。ローマ建築円熟期の優れた工学・技術を継承し、早い段階で技術的成熟に達するが、その後、東ローマ帝国の国力の衰退と隆盛による影響はあるものの、発展することも急速に衰退することもなく存続した。
教会堂建築。ビザンティン建築の典型とみなされる巨大な特徴的なドームをもつ。東に至聖所、西に正面玄関を持つ伝統的な平面構成、身廊中央部に巨大なドームがある。創建当時は単純な四角形平面であったが、その後、東ローマ帝国、オスマン帝国の時代を通じて、周囲に様々な施設が建て増しされた。内壁は基本的にはオスマン帝国時代に塗られた漆喰仕上げ、大理石仕上げとなってい。
モスク、ミナレット、ミフラーブ、ムカルナスなどの施設が採用されたため、建築のデザインや構成は地域性を超えて大きな影響を受けた。イスラームでは偶像崇拝が禁止されていたため幾何学模様と文字装飾が発展し、美しいアラベスクやカリグラフィーがイスラーム建築を彩っている。
構成要素・
丘の上に位置する城塞・宮殿である。建築の材料には、レンガ、木材、練土などのもろいものが多く、彫刻を施した石材などは最低限しか使用されていない。アルハンブラ宮殿の中心は、いくつかの建造物に囲まれた中庭(パティオ)におかれ、他のイスラーム建築の例に倣っている。
◆ロマネスク建築
中世西ヨーロッパの建築様式である。時代区分としては、おおよそ1000年から1200年頃までのゴシック建築以前の建築を指す。同時代のビザンティン建築と同じく、教会堂建築において最高の知識・技術・芸術が集約されており、彫刻や絵画は聖堂を装飾するための副次的要素であった。
12世紀後半からフランスを発祥とする建築様式。ゴシック建築の本質は、これらのモティーフを含めた全体の美的効果が重要で、ロマネスク建築が部分と部分の組み合わせで構成され各部がはっきりと分されているのに対し、ゴシック建築では全体が一定のリズムで秩序づけられている。
ゴシック建築を代表する建物であり、フランス、パリのシテ島にあるローマ・カトリック教会の大聖堂。2019年に大規模火災が発生し尖塔などを焼失した。ファサードを構成する双塔は1250年に至るまで工事が続けられ、ヴォールトを支えるフライング・バットレスは12世紀に現様式に取り替えられた。最終的な竣工は1345年。全長127.50m、身廊の高さは32.50m、幅は12.50mと、それまでにない壮大なスケールの大聖堂が完成した。
ミラノのドゥオーモは世界最大級のゴシック建築であり、5世紀もの歳月をかけて多くの芸術家によって完成された。階段またはエレベータによって聖堂の上に登ることができる。ドゥオーモには135本の尖塔があり尖塔の天辺にはひとつひとつに聖人が立っている。
◇ウィトルウィウスの建築書
共和政ローマ期に活動した建築家・建築理論家。この書物は現存する最古の建築理論書であり、おそらくはヨーロッパにおける最初の建築理論書でもある。 →ルネッサンス建築に強い影響を与えた。
◆◆ルネサンス建築
ルネサンス建築、また古典主義建築ではオーダーやアーチを用い、均整のとれた静的・理知的な構成の美しさを特徴とする。一義的にイタリアのフィレンツェで1420年代に始まり、17世紀初頭まで続いた建築様式を指す。後のバロック建築・新古典主義建築を通じて継承された。人体比例と音楽調和を宇宙の基本原理とし、ローマ建築の構成を古典主義建築として理論づけた。忘れられていた古代を復興する文化運動であり、建築の面ではそれまで主流であったゴシック建築の技法を否定し、古代ローマの建築を再生した。人体の比例と音楽の調和を建築に組み合わせることが美の具現と信じ、設計において簡単な整数比で表した。
■サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂(フィレンツェ大聖堂)
巨大なドームが特徴の大聖堂は、イタリアにおける晩期ゴシック建築および初期ルネサンス建築を代表するもので、フィレンツェのシンボルとなっている。1296年から140年以上をかけて建設された[1]。外装は白大理石を基調とし、緑、ピンクの大理石によって装飾され、すこぶるイタリア的なゴシック様式に仕上がっている。クーポラとランターン(採光部)は初期ルネサンス、そして19世紀に完成したファサードはネオ・ゴシックによる混成様式である
◆バロック建築 反古典主義的建築
バロック建築でもオーダーやアーチが使われるが、しばしば曲面を用いたり彫刻・絵画を総動員するなどして、感情に訴える動的・劇的な空間を作り出そうとする。その点で反古典主義的とも言われる。 1590年頃から盛んになった建築様式。建築そのものだけではなく、彫刻や絵画、家具などの諸芸術が一体となった総合芸術となっていることを特徴とする。複雑さや多様性をもつ。後期にはサロン文化が栄盛んになりロココと呼ばれる傾向を示すようになる
ミケランジェロによって設計された世界最大級の教会堂建築である。その巨大さ、荘厳さ、内部装飾の豪華さを含め、聖堂の中の聖堂と呼ぶにふさわしい威容を誇っている。大聖堂の前には サン・ピエトロ広場が設けられ広場は楕円形と台形が組み合わさったコロネードに囲まれ、中央には高さ25.5mのオペリスクがある。ポルティコ(玄関廊)から聖堂内に入る5つの扉がある。
フランスの古典的バロック建築。主な部分の設計はマンサールとル・ブランによっておこなわれ、バロック建築の代表作で豪華な建物と広大な美しい庭園で有名である。ヴェルサイユ宮殿は、ルイ14世が建造した宮殿である。そのため、フランス絶対王政の象徴的建造物ともいわれる。
中央ヨーロッパの後期バロック建築。彼の建築的アプローチはフランスのそれとは全く異なり、むしろベルニーニやボッロミーニの手法を想起させる。部屋の多くは、全部で1441室の部屋があり、約1000人もの人が住んでいた。ロココ様式で装飾されている
◆ロココ建築
主に宮廷建築で用いられた後期バロック建築の傾向を指すもので、独立した建築様式ではない。室内装飾に特徴がある。18世紀になるとロココの繊細で洒落たデザインは軽薄で軟弱なものと批判される。その後新古典主義が栄える。18世紀初めのフランスに始まり、ドイツ、ロシアなどヨーロッパの宮廷で採用された。ドイツのロココ装飾の教会堂もある。室内装飾が主で、独自の様式というよりは、バロック建築の一変形とも見られる。
◆新古典主義建築 (フランス)
18世紀後期に、啓蒙思想(けいもう)や革命精神を背景として、フランスで興った建築様式。ロココ芸術の過剰な装飾性や軽薄さに対する反動として荘厳さや崇高美を備えた建築が模索された。
◆歴史主義建築
18世紀の新古典主義建築と20世紀のモダニズム建築に挟まれた時期に現れた、特定の傾向の建築を指す。19世紀から20世紀はじめごろの時期に、西洋の過去の建築様式を復古的に用いて設計された建築のこと。歴史主義建築は単数の様式を作り変えて新たな建築をも模索し折衷主義は複数の様式を組み合わせて新たな建築を模索する。20世紀初頭ごろまでは主流であったが、近代建築運動の中で否定されていった。
18世紀後半から19世紀にかけて興ったゴシック建築の復興運動である。ネオ・ゴシック建築(Neo-Gothic Architecture)とも呼ばれる。イギリスを発祥。1750年、ホレス・ウォルポールはロンドン近郊のストロベリー・ヒル・ハウスを、彼の著作『オトラント城奇譚』そのままに改築し、ゴシック建築をイギリスの田園邸宅として確立した。彼にとっては、ゴシック建築とは18世紀のロココ建築の軽薄さにはない本質的な美を与えてくれるものであったが、その着想のほとんどは実際の建築ではなく、文献や図版から得たものである。
■ストロベリー・ヒル・ハウス
18世紀中頃に建てた中世ゴシック風の邸宅(カントリー・ハウス)である。政治家ホレス・ウォルポールはゴシック・リヴァイヴァル建築の先駆とされる.ウォルポールはさらに邸宅の増築を重ね、はじめ対称的だった建物は不規則な形態になっていった。1759年にゴシック風の円塔、1763年に西側の増築部分、1777年に円錐屋根のボークレア塔を建てた
◆モダニズム建築の成立
◆アーツ・アンド・クラフツ運動
イギリスの詩人、思想家、デザイナーであるウィリアム・モリスが主導したデザイン運動(美術工芸運動)である。産業革命の結果として大量生産による安価な、しかし粗悪な商品があふれていた。モリスはこうした状況を批判して手仕事に帰り生活と芸術を統一することを主張した。モリス商会を設立し、装飾された書籍やインテリア製品(壁紙や家具、ステンドグラス)などを製作した。生活と芸術を一致させようとしたモリスの思想は各国にも大きな刺激を与え、アール・ヌーヴォー、ウィーン分離派、ユーゲント・シュティールなどの美術運動に影響を与えた。
19世紀イギリスの詩人、デザイナー、マルクス主義者。多方面で精力的に活動し、それぞれの分野で大きな業績を挙げた。「モダンデザインの父」と呼ばれる。また、架空の中世的世界を舞台にした『世界のかなたの森』など多くのロマンスを創作し「モダン・ファンタジーの父」とも呼ばれる。ロード・ダンセイニやJ・R・R・トールキンにも影響を与えた。
■レッド・ハウス
イングランドのケント州ベクスリヒースに建てられアーツ・アンド・クラフツの原点となったカントリー・ハウス風建築。1859年にウィリアム・モリスの自宅兼工房としてフィリップ・ウェッブの設計、ウィリアム・ケントの施工で建設された。
19世紀末から20世紀初頭にかけてヨーロッパを中心に開花した国際的な美術運動。「新しい芸術」を意味する。花や植物などの有機的なモチーフや自由曲線の組み合わせによる従来の様式に囚われない装飾性や、鉄やガラスといった当時の新素材の利用などが特徴。分野としては建築、工芸品、グラフィックデザインなど多岐にわたった。第一次世界大戦を境に、様式化が進みコスト高でもあったアール・ヌーヴォーのデザインは、流線型で直進的であり安価に製造できる、ラフで簡素で工業的な美意識に忠実であると考えられたモダニズム的なデザインへと変化して行った。アール・デコへの移行が起き、アール・ヌーヴォーは退廃的なデザインとしてとした。
◆アール・デコ
アール・ヌーヴォーの時代に続き、ヨーロッパおよびアメリカ合衆国(ニューヨーク)を中心に1910年代半ばから1930年代にかけて発展した装飾の装飾美術。原義は装飾美術。幾何学図形をモチーフにした記号的表現や、原色による対比表現などの特徴を持つが、その装飾の度合いや様式は多様である。アール・デコは1925年に開催されたパリ万国装飾美術博覧会で花開いた。アール・デコ建築としては1930年頃はニューヨークの摩天楼(クライスラー・ビルディング・エンパイア・ステート・ビルディング・ロックフェラーセンターなど)が有名である。
アメリカ合衆国ニューヨーク市マンハッタン区タートル・ベイにある超高層ビル。その優美な姿はニューヨーク摩天楼のなかでも特徴的なものでありアメリカ合衆国のシンボルの一つである。頂部や壁面、内装にアール・デコの装飾がほどこされている。もともとは自動車メーカーのために建てられたことから、各所に自動車をモチーフとした装飾が施されている。
◆モダニズム建築
アーツ・アンド・クラフツに影響を受けた建築家、デザイナーの組織ドイツ工作連盟(DWB)の活動と、芸術学校バウハウスの開設がモダニズム建築の展開のうえで大きな推進力になった。ドイツ工作連盟によって産業と芸術の統一が意図され、ペーター・ベーレンスのAEGタービン工場(1910年)が新しい建築のあり方を提示した。ベーレンスの元で学んだヴァルター・グロピウスは、バウハウス(1919年)の教育において建築を中心にした総合芸術を目指した。グロピウスはロシア構成主義やオランダのデ・ステイルの合理主義・機能主義からも影響を受けた。1925年にはバウハウス叢書として『国際建築』(Internationale Architektur)が刊行された。
1927年の国際連盟コンペでは入選9案のうちにル・コルビュジエの計画案を含まれていたが、審査員の中の保守派達(ボザール流の旧式な建築家)はル・コルビュジエ案は規約違反であるとして排斥し、保守派と近代建築運動側の対立が表面化した。これをきっかけに翌年CIAM(Congrès International d'Architecture Moderne、シアム、近代建築国際会議)が開催され、グロピウス、ミース・ファン・デル・ローエ、ル・コルビュジエら24人の建築家が参加した(CIAMは1956年まで各国で開催された)。CIAMを中心にした建築家たちの主張と実践により、新しい建築の理念が確立され、これらの動向は各国に急速に浸透し、機能的・合理的で装飾のない建築が国境を超えていった。
1932年には、ニューヨーク近代美術館(MOMA)でフィリップ・ジョンソンとヘンリー・ヒッチコックの企画によりCIAMの建築家らの作品を紹介した「近代建築展」が開催された。同展の図録『インターナショナル・スタイル』も大きな影響を及ぼし、インターナショナル・スタイル(国際様式)建築という呼び方も一般的になった。
これらの1920年代をピークとする建築運動を近代建築運動(Modern Movements in Architecture)という。近年は機能主義建築、合理主義建築、あるいはインターナショナル・スタイル建築として主張されてきたこれらの動向を総合してモダニズム建築と呼ぶことが多い
◆ドイツ工作連盟
ドイツ工作連盟は、20世紀始めのドイツで設立された団体で、建築家、デザイナーらが参加し、モダンデザインの発展の上で大きな足跡を残したDWB。ムテジウスはイギリスのアーツ・アンド・クラフツ運動から影響を受け、近代社会にふさわしい芸術と産業の統一を構想しており、やがてドイツ工作連盟の中で大きな影響力を持つようになった。ドイツ工作連盟の活動はインダストリアルデザインの始まりであった。
「工業デザイン」または「工業意匠」とも呼ばれ、産業分野における工業製品の設計や造形を担うデザイン分野である。18世紀末にイギリスで起きたいわゆる産業革命によって、クラフト的伝統を受け継ぐ「応用美術」や「趣味」といった意味としての「デザイン」と明確に使い分けられるようになった。機械生産による大量生産・大量消費社会への転換を背景に生まれ、1930年代中頃に「画家」「技師」「市場調査員」といった総合的な特徴を持ち合わせた職能を近代的「工業デザイナー」とする国際的コンセンサスが形成された。
◆バウハウス
1919年、ヴァイマル共和政期ドイツに設立された、工芸・写真・デザインなどを含む美術と建築に関する学校。その流れを汲む合理主義的・機能主義的な芸術を指すこともある。無駄な装飾を廃して合理性を追求するモダニズムの源流となった教育機関であり、活動の結果として現代社会の「モダン」な製品デザインの基礎を作り上げた。デザインの合理性から、幅広い分野にバウハウスの影響が波及しており、特に理由がない限り標準的なデザインとして採用されている。
◆ロシア構成主義
キュビスムやシュプレマティスムの影響を受け、1910年代半ばにはじまった、ソ連における芸術運動。絵画、彫刻、建築、写真等、多岐にわたる。抽象性(非対象性・幾何学的形態)、革新性、象徴性をもち平面作品にとどまらず、立体的な作品が多いことも、特徴の1つである。
■「第三インターナショナル記念塔」
ロシア構成主義の代表的な作家ウラジーミル・タトリンはパリのエッフェル塔に匹敵する高さの螺旋形の鉄塔「第三インターナショナル記念塔」を構想した。後世の建築家・芸術家に大きな影響を与えた。 塔の外側は斜めの柱と二つの螺旋構造物から成り、格子状の支柱で支えられていた。内部には立方体、ピラミッド、円柱、半球の形をした四つのフォルムが設置された。立方体は1年に1回転、ピラミッドは月に1回転、円柱は1日に1回転、半球は1時間に1回転し、それぞれ会議室、インターナショナルの組織、出版局や電報局といった情報局として利用されるよう構想された。鉄とガラスという新しい素材の利用、大胆な形態、高度な技術の要請、そして自然のメカニズムとの調和や革命の理念を志向しているという点で、ロシア・アヴァンギャルドの象徴的作品とされている。
◆デ・ステイル
1917年にテオ・ファン・ドースブルフがオランダのライデンで創刊した雑誌、及びそれに基づくグループの名称。建築や抽象絵画の重視、バウハウスへの大きな影響、ダダと 構成主義の橋渡し、など、国境や美術の分野を越えた活動をおこなった。グループの重要なメンバーでもあるピエト・モンドリアンが主張した新造形主義(ネオ・プラスティシズム)であった。しかし、リーダーであるドースブルフの考えは、絵画よりもむしろ建築を重視し、1924年には、垂直と水平だけでなく、対角線を導入した要素主義(エレメンタリズム)を主張した。
オランダ人建築家ヘリット・リートフェルトによって設計された住宅である。色使いもちろんのことだが、水平・垂直の分割数が多く、構成要素が多い。さらにその要素が、階の高さなどあえて揃えないことで、自由にふるまっているように見える。背景にデ・ステイルという様式があってこその外観である。壁が、シュレーダー邸をコンポジションの絵画のように大胆な構成にしている
■CIAM
1927年の国際連盟コンペでは入選9案のうちにル・コルビュジエの計画案を含まれていたが、審査員の中の保守派達はル・コルビュジエ案は規約違反であるとして排斥し、保守派と近代建築運動側の対立が表面化した。これをきっかけに翌年CIAMが開催された。建築家たちが集まり都市・建築の将来について討論を重ねた国際会議。モダニズム建築(近代建築)の展開のうえで大きな役割を担った。CIAMを中心にした建築家たちの主張と実践により、新しい建築の理念が確立され、これらの動向は各国に急速に浸透し、機能的・合理的で装飾のない建築が国境を超えていった。
◆オットー・ワーグナー 「芸術は必要にのみ従う」
オーストリアの建築家、都市計画家。ヴァーグナー、ワグナーとも表記される。
新しい造形をめざしたウィーン分離派の中心人物の1人。「芸術は必要にのみ従う」(Artis sola domina necessitas)と主張し、機能性・合理性を重視する近代建築の理念を表現した。建築作品のほとんどはウィーンにある。代表的な作品は「ウィーン郵便貯金局」である。
◆アドルフ・ロース 「装飾は犯罪である」
オットー・ワーグナーの影響を受け「装飾は犯罪である」と宣言し、装飾そのものを否定した。代表的な作品は「ウィーンのシュタイナー・ハウス 」である。アメリカに渡りシカゴの高層ビルや実用的なデザインを見て大きな影響を受けた。建築家オットー・ワーグナーの「芸術は必要にのみ従う」という合理主義・機能主義の主張を更に徹底させたものと言えるが、こうした過激な言論で「ウィーン分離派」や「ウィーン工房」(ヨーゼフ・ホフマン)の装飾性を攻撃した。
ウィーンで画家グスタフ・クリムトを中心に結成された新進芸術家のグループを言う。ウィーン分離派はミュンヘン分離派(1892年)の結成に影響を受けているが、総合芸術を志向していた点に特徴がある。
◆ルイス・ヘンリー・サリヴァン 「形式は常に機能に従う」
アメリカの建築家。シカゴ派の代表的な建築家の一人でその理論的・文化的支柱であった。フランク・ロイド・ライト、ヘンリー・ホブソン・リチャードソンともにアメリカ建築の三大巨匠とされる。「形式は常に機能に従う。(form ever follows function. )」は通常「形式は機能に従う。(form follows function. )」に短縮されて用いられる。近代以前の建築は、形態を作る時に様式を根拠にしていた。当時の自動車が馬車を模倣したように「歴史」に従っていた。サリヴァンは方程式を解いていくと、結果的に美しいものができると説いた。
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