​全国ケンコミ建築設計研究所
​世界建築史Ⅱ

工業社会(機械中心の建築)

モダニズム建築

​~ 第2の建築の始まり ~

​◆モダニズム建築の成立

アーツ・アンド・クラフツ運動

イギリス詩人思想家デザイナーであるウィリアム・モリスが主導したデザイン運動(美術工芸運動)である。産業革命の結果として大量生産による安価な、しかし粗悪な商品があふれていた。モリスはこうした状況を批判して手仕事に帰り生活と芸術を統一することを主張した。モリス商会を設立し、装飾された書籍インテリア製品(壁紙家具ステンドグラス)などを製作した。生活芸術を一致させようとしたモリスの思想は各国にも大きな刺激を与え、アール・ヌーヴォーウィーン分離派ユーゲント・シュティールなどの美術運動に影響を与えた。

ウィリアム・モリス

19世紀イギリス詩人デザイナーマルクス主義者。多方面で精力的に活動し、それぞれの分野で大きな業績を挙げた。「モダンデザインの父」と呼ばれる。また、架空の中世的世界を舞台にした『世界のかなたの森』など多くのロマンスを創作し「モダン・ファンタジーの父」とも呼ばれる。ロード・ダンセイニJ・R・R・トールキンにも影響を与えた。

レッド・ハウス「赤い家」

イングランドケント州ベクスリヒースに建てられアーツ・アンド・クラフツの原点となったカントリー・ハウス風建築。1859年にウィリアム・モリスの自宅兼工房としてフィリップ・ウェッブの設計、ウィリアム・ケントの施工で建設された。このレッドハウスの設計や内部装飾の雇用同作業による成果とおしてモリスはものづくりの楽しさや使う喜びを得た。これが生活の芸術家となる期限となった。このあと芸術職人集団の商会を設立した。

アール・ヌーヴォー

19世紀末から20世紀初頭にかけてヨーロッパを中心に開花した国際的な美術運動。「新しい芸術」を意味する。花や植物などの有機的なモチーフや自由曲線の組み合わせによる従来の様式に囚われない装飾性や、鉄やガラスといった当時の新素材の利用などが特徴。分野としては建築工芸品グラフィックデザインなど多岐にわたった。第一次世界大戦を境に、様式化が進みコスト高でもあったアール・ヌーヴォーのデザインは、流線型で直進的であり安価に製造できる、ラフで簡素で工業的な美意識に忠実であると考えられたモダニズム的なデザインへと変化して行った。アール・デコへの移行が起き、アール・ヌーヴォーは退廃的なデザインとしてとした。

​◆アール・デコ

アール・ヌーヴォーの時代に続き、ヨーロッパおよびアメリカ合衆国ニューヨーク)を中心に1910年代半ばから1930年代にかけて発展した装飾の装飾美術。原義は装飾美術。幾何学図形をモチーフにした記号的表現や、原色による対比表現などの特徴を持つが、その装飾の度合いや様式は多様である。アール・デコは1925年に開催されたパリ万国装飾美術博覧会で花開いた。アール・デコ建築としては1930年頃はニューヨーク摩天楼クライスラー・ビルディングエンパイア・ステート・ビルディングロックフェラーセンターなど)が有名である。

クライスラー・ビルディング

アメリカ合衆国ニューヨーク市マンハッタンタートル・ベイにある超高層ビル。その優美な姿はニューヨーク摩天楼のなかでも特徴的なものでありアメリカ合衆国のシンボルの一つである。頂部や壁面、内装にアール・デコの装飾がほどこされている。もともとは自動車メーカーのために建てられたことから、各所に自動車をモチーフとした装飾が施されている。

​◆モダニズム建築

アーツ・アンド・クラフツに影響を受けた建築家デザイナーの組織ドイツ工作連盟(DWB)の活動と、芸術学校バウハウスの開設がモダニズム建築の展開のうえで大きな推進力になった。ドイツ工作連盟によって産業と芸術の統一が意図され、ペーター・ベーレンスAEGタービン工場(1910年)が新しい建築のあり方を提示した。ベーレンスの元で学んだヴァルター・グロピウスは、バウハウス(1919年)の教育において建築を中心にした総合芸術を目指した。グロピウスはロシア構成主義やオランダのデ・ステイルの合理主義・機能主義からも影響を受けた。1925年にはバウハウス叢書として『国際建築』(Internationale Architektur)が刊行された。

1927年の国際連盟コンペでは入選9案のうちにル・コルビュジエの計画案を含まれていたが、審査員の中の保守派達(ボザール流の旧式な建築家)はル・コルビュジエ案は規約違反であるとして排斥し、保守派と近代建築運動側の対立が表面化した。これをきっかけに翌年CIAM(Congrès International d'Architecture Moderne、シアム、近代建築国際会議)が開催され、グロピウス、ミース・ファン・デル・ローエル・コルビュジエら24人の建築家が参加した(CIAMは1956年まで各国で開催された)。CIAMを中心にした建築家たちの主張と実践により、新しい建築の理念が確立され、これらの動向は各国に急速に浸透し、機能的・合理的で装飾のない建築が国境を超えていった。

1932年には、ニューヨーク近代美術館(MOMA)でフィリップ・ジョンソンとヘンリー・ヒッチコックの企画によりCIAMの建築家らの作品を紹介した「近代建築展」が開催された。同展の図録『インターナショナル・スタイル』も大きな影響を及ぼし、インターナショナル・スタイル(国際様式)建築という呼び方も一般的になった。

これらの1920年代をピークとする建築運動を近代建築運動(Modern Movements in Architecture)という。近年は機能主義建築、合理主義建築、あるいはインターナショナル・スタイル建築として主張されてきたこれらの動向を総合してモダニズム建築と呼ぶことが多い

​◆ドイツ工作連盟

ドイツ工作連盟は、20世紀始めのドイツで設立された団体で、建築家デザイナーらが参加し、モダンデザインの発展の上で大きな足跡を残したDWB。ムテジウスはイギリスのアーツ・アンド・クラフツ運動から影響を受け、近代社会にふさわしい芸術と産業の統一を構想しており、やがてドイツ工作連盟の中で大きな影響力を持つようになった。ドイツ工作連盟の活動はインダストリアルデザインの始まりであった。

インダストリアルデザイン 

「工業デザイン」または「工業意匠」とも呼ばれ、産業分野における工業製品の設計や造形を担うデザイン分野である。18世紀末にイギリスで起きたいわゆる産業革命によって、クラフト的伝統を受け継ぐ「応用美術」や「趣味」といった意味としての「デザイン」と明確に使い分けられるようになった。機械生産による大量生産・大量消費社会への転換を背景に生まれ、1930年代中頃に「画家」「技師」「市場調査員」といった総合的な特徴を持ち合わせた職能を近代的「工業デザイナー」とする国際的コンセンサスが形成された。

​◆バウハウス

1919年ヴァイマル共和政ドイツに設立された、工芸写真デザインなどを含む美術建築に関する学校。その流れを汲む合理主義的・機能主義的な芸術を指すこともある。無駄な装飾を廃して合理性を追求するモダニズムの源流となった教育機関であり、活動の結果として現代社会の「モダン」な製品デザインの基礎を作り上げた。デザインの合理性から、幅広い分野にバウハウスの影響が波及しており、特に理由がない限り標準的なデザインとして採用されている。

​◆ロシア構成主義

キュビスムシュプレマティスムの影響を受け、1910年代半ばにはじまった、ソ連における芸術運動。絵画彫刻建築写真等、多岐にわたる。抽象性(非対象性・幾何学的形態)、革新性、象徴性をもち平面作品にとどまらず、立体的な作品が多いことも、特徴の1つである。

「第三インターナショナル記念塔」

ロシア構成主義の代表的な作家ウラジーミル・タトリンはパリのエッフェル塔に匹敵する高さの螺旋形の鉄塔「第三インターナショナル記念塔」を構想した。後世の建築家・芸術家に大きな影響を与えた。 塔の外側は斜めの柱と二つの螺旋構造物から成り、格子状の支柱で支えられていた。内部には立方体、ピラミッド、円柱、半球の形をした四つのフォルムが設置された。立方体は1年に1回転、ピラミッドは月に1回転、円柱は1日に1回転、半球は1時間に1回転し、それぞれ会議室、インターナショナルの組織、出版局や電報局といった情報局として利用されるよう構想された。鉄とガラスという新しい素材の利用、大胆な形態、高度な技術の要請、そして自然のメカニズムとの調和や革命の理念を志向しているという点で、ロシア・アヴァンギャルドの象徴的作品とされている。

​◆デ・ステイル

1917年テオ・ファン・ドースブルフオランダライデンで創刊した雑誌、及びそれに基づくグループの名称。建築や抽象絵画の重視、バウハウスへの大きな影響、ダダ 構成主義の橋渡し、など、国境や美術の分野を越えた活動をおこなった。グループの重要なメンバーでもあるピエト・モンドリアンが主張した新造形主義(ネオ・プラスティシズム)であった。しかし、リーダーであるドースブルフの考えは、絵画よりもむしろ建築を重視し、1924年には、垂直と水平だけでなく、対角線を導入した要素主義(エレメンタリズム)を主張した。

シュレーダー邸

オランダ人建築家ヘリット・リートフェルトによって設計された住宅である。色使いもちろんのことだが、水平・垂直の分割数が多く、構成要素が多い。さらにその要素が、階の高さなどあえて揃えないことで、自由にふるまっているように見える。背景にデ・ステイルという様式があってこその外観である。壁が、シュレーダー邸をコンポジションの絵画のように大胆な構成にしている

CIAM

1927年の国際連盟コンペでは入選9案のうちにル・コルビュジエの計画案を含まれていたが、審査員の中の保守派達はル・コルビュジエ案は規約違反であるとして排斥し、保守派と近代建築運動側の対立が表面化した。これをきっかけに翌年CIAMが開催された。建築家たちが集まり都市・建築の将来について討論を重ねた国際会議。モダニズム建築(近代建築)の展開のうえで大きな役割を担った。CIAMを中心にした建築家たちの主張と実践により、新しい建築の理念が確立され、これらの動向は各国に急速に浸透し、機能的・合理的で装飾のない建築が国境を超えていった。

オットー・ワーグナー 「芸術は必要にのみ従う」

オーストリア建築家都市計画家。ヴァーグナー、ワグナーとも表記される。

新しい造形をめざしたウィーン分離派の中心人物の1人。「芸術は必要にのみ従う」(Artis sola domina necessitas)と主張し、機能性・合理性を重視する近代建築の理念を表現した。建築作品のほとんどはウィーンにある。代表的な作品は「ウィーン郵便貯金局」である。

アドルフ・ロース 「装飾は犯罪である」

オットー・ワーグナーの影響を受け「装飾は犯罪である」と宣言し、装飾そのものを否定した。代表的な作品は「ウィーンのシュタイナー・ハウス 」である。アメリカに渡りシカゴの高層ビルや実用的なデザインを見て大きな影響を受けた。建築家オットー・ワーグナーの「芸術は必要にのみ従う」という合理主義・機能主義の主張を更に徹底させたものと言えるが、こうした過激な言論で「ウィーン分離派」や「ウィーン工房」(ヨーゼフ・ホフマン)の装飾性を攻撃した。

ウィーン分離派

ウィーンで画家グスタフ・クリムトを中心に結成された新進芸術家のグループを言う。ウィーン分離派はミュンヘン分離派(1892年)の結成に影響を受けているが、総合芸術を志向していた点に特徴がある。

ルイス・ヘンリー・サリヴァン 「形式は常に機能に従う」

アメリカの建築家シカゴ派の代表的な建築家の一人でその理論的・文化的支柱であった。フランク・ロイド・ライトヘンリー・ホブソン・リチャードソンともにアメリカ建築の三大巨匠とされる。「形式は常に機能に従う。(form ever follows function. )」は通常「形式は機能に従う。(form follows function. )」に短縮されて用いられる。近代以前の建築は、形態を作る時に様式を根拠にしていた。当時の自動車が馬車を模倣したように「歴史」に従っていた。サリヴァンは方程式を解いていくと、結果的に美しいものができると説いた。

​◆モダニズム建築の三大巨匠

<アカデミズムへの反発>

1927年におこなわれた国際連盟本部設計コンペで、ボザール流の保守的な建築家が、コルビュジエの計画案を規約違反だとして排除した。理由はひどいもので、応募した図面のインクが規定のものではなく、青焼きだからというもの。明らかに抜きん出た案を提出していたコルビジェだったが、審査員たちは最終選考を行わず、棚上げした。最終的には、仕切り直しで4人のアカデミー派の建築家チームが指名されたが、結局コルビジェの案に似たものが出来上がる、、似てはいるが駄作であったため、逆にモダニズム建築の勝利が浮き彫りとなった。コルビジェはアカデミズムへの反発から、モダニズムの建築家を集め、翌年CIAMを開催する

 

<CIAM「近代建築国際会議」の設立 ,1928>

1928-1959年の30年間、世界のモダニズムの建築家、都市計画家、評論家などを交えて、建築の未来についての国際会議をおこなった。中心人物は、コルビジェ、グロピウス、建築史家のジークフリート・ギーディオンなど。パトロンはスイス人のド・マンドロー夫人。第4回のテーマ「機能的都市」で討議された内容の成果は、のちに「アテネ憲章」としてまとめられ、高層建築のみの街区形成や、機能別のゾーニング計画について、近代都市計画のフォーマットとなり、特に第二次世界大戦後の世界の都市計画はこれをもとにつくられた。内容は、コルビュジエが提唱した「300万人の現代都市」「ヴォアザン計画」「輝く都市」の主張に沿ったものだった。日本でもコルビジェの機能的都市に則って都市計画がおこなわれ、建物の用途が規制される都市計画区域などはこれの名残。

『アテネ憲章』
「機能的統一体」の考え方。''都市というのは、労働、住居、余暇、交通である"と定義し、また、太陽、緑、空間を持つべきとした。都市を構成する機能を抽出し、それらをどう結びつけるかが主題となっている。

『空間・時間・建築』
建築の四次元性、時間の概念の導入。キュビズムとの同時代性が関連している。
1950年代頃になると、結成当時のメンバーが高齢化したこともあり、戦後の討議は戦前の繰り返しになってしまった。第10回をもって解散となり、同時に新しい世代のグループとして「チームX」(ten)が発足。リーダーはスミッソン夫妻。

 

<郊外のスプロール化>

機能の分離によって都市の高密度化が起こり、それが都市近郊のスプロール化を生み出す原因の一つとなっている。環境整備が追いつかずに、周辺道路とのアクセスを無視して、民間業者が無秩序に都市郊外の住宅整備が進めてしまうことが原因。

◆​◆ル・コルビュジエ 「住宅は住むための機械である」

モダニズム建築の巨匠といわれ[1]、特にフランク・ロイド・ライトミース・ファン・デル・ローエと共に「近代建築の三大巨匠」として位置づけられる(ヴァルター・グロピウスを加えて四大巨匠とみなすこともある)。ル・コルビュジエは時計職人の道を進むつもりだったが、当時時計産業は斜陽化しつつあり、さらにル・コルビュジエは視力が非常に弱く、精密な加工を必要とする時計職人としては重大なハンデを背負っていたため、徐々に別の道へ進むことを模索するようになっていった。1914年に鉄筋コンクリートによる住宅建設方法である「ドミノシステム」を発表。1923年に『レスプリ・ヌーヴォー』に掲載された自らの記事をまとめた著作『建築をめざして』を発表し、世界中の建築家から注目を集めた。この著作の中の「住宅は住むための機械である(machines à habiter)」という言葉は、彼の建築思想の代表的なものとしてよく引用される。1922年のサロンドートンヌでは『300万人の現代都市』を、1925年にはパリ市街を超高層ビルで建て替える都市改造案『ヴォアザン計画』を、そして1930年には『輝く都市』を発表した。1931年竣工の『サヴォア邸』はル・コルビュジエの主張する「近代建築の五原則」を典型的に示し、代表作として知られる。1932年にソ連で行われたソビエト宮殿のコンペに応募して敗退したものの、その斬新さは注目を浴び、丹下健三が建築家を志すきっかけにもなっている。

​◆オーギュスト・ペレ

オーギュスト・ペレ(Auguste Perret、1874年2月12日 - 1954年2月25日)は、ベルギーブリュッセル生まれの20世紀フランスで活躍した建築家鉄筋コンクリート造という新しい技術により芸術的な表現を追求し、「コンクリートの父」と呼ばれる。ペレは、古典的なシンメトリーやオーダーと鉄筋コンクリート構造の融合を成し遂げた。代表作のひとつであるノートルダム・デュ・ランシー(ランシーの教会堂)英語版)では、ゴシックの空間と、近代合理主義的な直線が組み合わされている。ペレは、安価で、造形性に富むコンクリートを石材よりも優れた材料であると見ていたが、その視点は主にディテールとテクスチャーに向かっていたと言われている。彼の作品にはコンクリートを剥き出しの状態で仕上げとする「打ち放し」が多用され、またプレキャストコンクリートにも多くの実験的作品があり、その影響は計り知れない。とりわけル・コルビュジェヴァルター・グロピウス等の建築家におおきな影響を与えた。ペレの事務所には、若き日のル・コルビュジェやベドジフ・フォイエルシュタイン(後に来日し、アントニン・レーモンドと共同で聖路加国際病院などを設計)らが在籍していた。

■300万人の現代都市

300万人の現代都市のグリットシステムは固有性や特殊性とは無関係に一定の領域内に抽象的な全体像を描いている。スプロール上にむしばまれる現実の都市とは違ってグリットシステムに元ずく。美しく成形され組織的な制御に身をゆだねる都市像を提案した。40メートルの高速道路に対して45度の街路グリットを基本グリットとする。中心には十字型平面の高層建築と公園が周辺部には6階建ての集合住宅が、さらに数マイルに及ぶ緑地帯を挟んで工業地帯が配置される。住環境が均等に提供できる都市計画を思考した。

■輝く都市

輝く都市は、モダニズムの建築家、ル・コルビュジエが提唱した理想都市の構想である。人口過密で環境の悪化する近代都市を批判し、300万人の現代都市(1922年)、パリヴォアザン計画(1925年)、輝く都市(1930年)などの計画案を発表した。1933年にCIAM(近代建築国際会議)で採択された「アテネ憲章」は、輝く都市の理念に沿ったものであった。高層ビルを建設して空地オープン・スペース)を確保し、街路整備して自動車道歩道を分離し(歩車分離)。それに基づき都市問題の解決を図ろうと提唱している。ル・コルビュジエの思想は、当時のフランスにおいて異端的なものであり、ほとんど受け入れられなかったが、マルセイユをはじめとする各地に建設されたユニテ・ダビタシオン(1952年)は、「輝く都市」論の実践の一つであった。また、ブラジリアなど各国の都市計画の理念に大きな影響を与えた。

インターナショナルスタイル

インターナショナル・スタイル(International Style, 国際様式)とは、国際的な展開をしていた近代建築において、個人や地域などの特殊性をこえて、世界共通の様式へと向かおうとするもの。代表例としては、ミース・ファン・デル・ローエの一連の作品が挙げられる。最初にヴァルター・グロピウスが指摘(バウハウス叢書第1巻・『国際建築』・1925年

・モノトーンで無装飾
・合理主義かつ機能主義的
・直線的な造形表現
(キュービックな建物本体、フラットな陸屋根、連続するガラスのカーテン・ウォールなど)
・内部空間の自由な間仕切り

「ドミノシステム」

1914年にル・コルビュジエの提唱した鉄筋コンクリート構造システム。建築スラブ,それを支える階段の3つから成るとし,住宅を大量生産するために考案されたもので,のちに鉄筋コンクリートの構造をプレハブ化するシステムとして具体化された。当時,コルビュジエはまだパリで活動を行なっておらず,スイスラショードフォンで美術教師をしていたが,その発想の大胆さは人々をひきつけ,近代建築の方向を予感させるものであった。

■「建築をめざして

『建築をめざして』(仏:Vers une architecture)は、フランスの建築家ル・コルビュジエによる初期の代表的な著作。

原著は1923年に『エスプリ・ヌーヴォー』誌等の記事をまとめ出版されたもので、本書の「住宅は住むための機械である」という言葉は、余りにも有名である。

サヴォア邸

サヴォア邸は、ル・コルビュジエが設計したフランスパリ郊外にある近代建築住宅。サヴォア邸では、ピロティ屋上庭園、自由な平面、独立骨組みによる水平連続窓、自由な立面からなる近代建築の五原則のすべてが、高い完成度で実現されている。平面の中央には緩やかなスロープが設けられ、1階と2階を連続的に繋いでシークエンスを形成している。もとは別荘としての一般住宅であった。サヴォア邸はモダニズム以前の装飾的で重厚な西洋的伝統建築とは大きく異なり、空間を大胆に使ったことで、当時の建築家たちに大きな衝撃を与えた。ドミノスラブと柱で支えており、は存在しない。ピロティを使うことにより、居住部分がまるで空中に浮かんでいるかのような印象を与え、水平連続窓はたっぷりと光を取り込むことで室内を明るくし透明感を与える。水平連続窓は室内を明るくするだけでなく、時間とともに移り変わる日光の色が室内に映えるようにも設計されている。また、素材には、当時では新しい素材であった鉄筋コンクリートを使用している。屋上庭園は外から中が見えないように設計されており、プライバシーが確保されるように設計されている。また、バスルームや螺旋階段など、ところどころで曲線が使われており、ゆったりとした印象を与える。建物全体には灰色、白、黒、青、橙などの色が使われ、絶妙な色合いになっている。

■「近代建築の五原則

正確には「新しい建築の5つの要点」ピロティ (les pilotis)屋上庭園 (le toit-terrasse)自由な設計図 (le plan libre)水平連続窓 (la fenêtre en bandeau)自由なファサード (la façade libre)

ユニテビタシオン

建築家ル・コルビュジエが設計した一連の集合住宅フランス語で「住居の統一体」と「住居の単位」の二重の意味を有する。マルセイユのユニテ・ダビタシオンは、世界遺産ル・コルビュジエの建築作品-近代建築運動への顕著な貢献-」の構成資産となっている。輝く都市に代表されるル・コルビュジエの都市計画案を、集合住宅として垂直方向に実現したともいえる建築作品である。1階はピロティとされるとともに、屋上には屋上庭園が設けられている。全体はモデュロールに基づいて設計されており、側面の開口にはブリーズ・ソレイユ(日除け)が設けられ日差しを調整している。工業化・規格化が試行され、鉄筋コンクリートの骨組みにプレハブ化された住戸をはめ込む構造が採用されている。8階建て、全337戸で、最大約1,600人が暮らすことができる巨大な集合住宅で、1人向けから4人向けまでの23タイプの多様なユニットが立体的に組み合わされている。住戸はメゾネットで、エレベーターは3階ごとに停止する( 現在は各階に停止)。中間階の7階、8階及び屋上には、共用施設が設けられている。7階、8階には、店舗や郵便局等があり、屋上には保育園、体育館、プール等がある。1961年には3階、4階部分の当時空室だった住居を利用してホテルが開業しており、現在でも、一般客が宿泊することができる。 3階には店舗やレストランがあり誰でも利用することが出来る。また、3、4階と屋上テラス(RC)はエントランスの受付で名前を記入すれば誰でも見学が可能。 ピロティはマッシブな造形で、プレキャストコンクリートを多用した打ち放しコンクリートの仕上げも荒々しく、ブルータリズムの傾向が伺える。

モデュロール

建築の実践の場において機能性あるいは美学の達成への応用とした。フランスの建築家ル・コルビュジエが、人体の寸法と黄金比から作った建造物の基準寸法の数列である。Modulorは、フランス語のmodule(モジュール・寸法)とSection d'or(黄金分割)から作ったル・コルビュジエによる造語である。古代ローマのウィトルウィウスレオナルド・ダ・ヴィンチ「人体図」レオン・バッティスタ・アルベルティの仕事などから人体における数学的な比率を見出だし、それを建造物の機能の向上のために利用した。モデュロールは、人体の寸法およびフィボナッチ数列、黄金比に基づく。基本的には、人が立って片手を挙げた時の指先までの高さを黄金比で割り込んで行く、という方式である。 ル・コルビュジエはモデュロールのことを「建築や、その他の機械の設計に普遍的に適用できる、人体の寸法に合わせて調和した寸法の範囲」と評している。ル・コルビュジエは実際にモデュロールを用いて数々の設計をした。ロンシャンの礼拝堂の窓配置ラ・トゥーレット修道院におけるブリーズ・ソレイユなどのプロポーショナル・レイアウトがその応用例として挙げられる。また、世界中の建築家にも大きな影響を与え、日本でも、丹下健三が日本版のモデュロールを作成している。

カップ・マルタンの休暇小屋

モデュールシステムと黄金比を統合しモデュロールという尺度を思案した。最小規模の建築において思考したのがカップ・マルタンの休暇小屋。。

身体の動きをパラメーターとし厳密に制御されたことの空間はあたかも数学的な宇宙のようだ。

カーペンター視覚芸術センター

米国マサチューセッツ州ケンブリッジにあるハーバード大学の施設で、建築家ル・コルビュジエによる米国及び北アメリカ大陸で唯一の建築作品である。モデューロを提唱する一方で場面の連続(シークエンス)によって情景を編むような設計手法を多用した。建築の中央のS字スロープはシークエンスを体験しながら上層へと導く。

ロンシャンの礼拝堂

フランスのフランシュ・コンテ地方のオート=ソーヌ県ロンシャンフランス語版)に位置する。世界遺産ル・コルビュジエの建築作品-近代建築運動への顕著な貢献-」の構成資産の一つである。シェル(貝殻)構造を採用しうねった屋根、それを浮かせるように支える巨大な外壁のマッス(塊り)、その厚い壁にランダムに穿たれた小さな開口部から幾条もの光が差し込む内部空間が特徴とされる。とくに正面ファサードはカニの甲羅を形どったとされる独特な形態で、薄い屋根の構造技法をも含め、鉄筋コンクリートが可能にした自由で彫塑的な造形を示している。エントランスを入ってすぐ、右手(東側)を正面祭壇とする礼拝堂である。それほど巨大な広さをもつ空間ではない。屋根のシェルは東西軸を下端とする中央で下がるカーブを描き、これがそのまま雨水の流れる勾配となって、西側壁上部にある象の鼻のような形をした雨樋から屋外に設けられた集水桶へと垂れ落ちるようになっている。巨大な南面の壁に穿たれた小さな開口部には、さまざまな原色ステンドグラスが奥深く嵌め込まれ、そこから差し込む外光の拡散(チンダル現象)によって、礼拝堂内部に極めて神秘的な光の空間が出現する。コルビュジエがサヴォア邸などで主張していた「近代建築の五原則」に基づく機能性・合理性を重視したモダニズムの表現とは異なり、さらに新しい可能性を追求したものとして、同じ宗教建築の範疇にはあっても少し後に設計されたラ・トゥーレット修道院とは対比的な、コルビュジエ後期の代表作とされる。1950年代に建てられたものではあるが、最初のポストモダン建築だとする評価もある。

ラ・トゥーレット修道院 

ロンシャンの自由な曲線を使って丘の頂上に外観を際立たせた造形とは対比的に、丘の斜面に沿うように建つ外観はむしろ禁欲的で垂直と水平の直線だけの矩形としてデザインされており、斜面の力を顕在化させた力強い建築として構成されている。

建築と数学とを学び、後に現代音楽の作曲家として名を挙げたヤニス・クセナキスがコルビュジェの弟子として設計に参画している。

現在では修道会と公共のためのカンファレンス・センターとして活用されている。

この建築は音楽のリズムを壁面や窓面の窓面の分割線と同調させることでリズミカルね建築を提案した。内部空間とファサードにコミカルな印象を与えている。

国立西洋美術館

東京都台東区上野公園内にある、西洋の美術作品を専門とする美術館である。独立行政法人国立美術館が運営している。本館は「ル・コルビュジエの建築作品-近代建築運動への顕著な貢献-」の構成資産として世界文化遺産に登録されている。本館の設計はル・コルビュジエが担当し、彼の弟子である前川國男坂倉準三吉阪隆正が実施設計・監理に協力し完成した。なお新館は前川國男(前川國男建築設計事務所)が設計した。建物の平面は正方形で、各辺に7本ずつのコンクリート打ち放しの円柱が立つ。これらの円柱は、2階では壁から離れて立つ独立柱となっている。1階部分は本来はピロティ(高床)構造となっていたものだが、現在ではガラスの外壁が設置され、1階の大部分が室内に取り込まれている。1階中央部分は、屋上の明かり取り窓まで吹き抜けとなったホールで、ル・コルビュジエによって「19世紀ホール」と命名され、現在はロダンの彫刻の展示場となっている。1階から2階へは、彫刻作品を眺めながら上れるように、階段ではなく、傾斜のゆるい斜路が設けられている。2階は、中央の吹き抜けのホールを囲む回廊状の展示室になっている。これは、ル・コルビュジエの「無限成長建築」というコンセプトに基づくもので、巻貝が成長するように、将来拡張が必要となった際には外側へ、外側へと建物を継ぎ足していける構造になっている。本館正面に向かって右側にある外階段は、本来出口として設計されたものだが、実際には一度も使用されず、立入禁止となっている。2階展示室は、内側部分の天井高が低くなっている。この低い天井の上は、自然光を取り入れ、明るさを調整するためのスペースとして設けられたものだが、現在は自然光でなく蛍光灯を使用している。

■ル・コルビュジエ・センター

その一つに「建築的ポリクロミー」と言う概念があります。ポリクロミーとは色彩を意味します。彼の作品である多くの建物のカラフルさはこのような考えからきているのではないでしょうか。コンクリート製の外観の各所に彼の好んだカラフルな色使いがされていて、建物のそばにある池に映った姿は美しいものがあります。比較的平らな三角の屋根があって、その屋根の続きに上下逆向きにしたような屋根が作られています。屋内には壁を取り巻くように設置してある階段があり、四角い螺旋階段のようです。また、どんでん返しの様な大きな扉もあります。この作品は設計中にコルビュジェがなくなり最後の遺作となった

<コルビジェが嫉妬したデザイナー>

同性愛者で私生活ではなぞの多い女性。彼女が設計したE1027には、コルビュジェも度々訪れていて勝手に壁画を描いたりしていた。彼がこの住宅を気に入って、住み着いていた時期もある。コルビジェの作品として数えられるなど、アイリーンの名は歴史から抹消されかけたこともあるなど、2人のあいだには何らかの確執があったとも言われている。コルビジェはE1027の前の海で溺死している。アイリーン・グレイ1878-1976(満98歳没)アイルランド生まれ、フランスで活躍したデザイナー、建築家

 

​◆◆フランクロイドライト

ル・コルビュジエミース・ファン・デル・ローエと共に「近代建築の三大巨匠」と呼ばれる(ヴァルター・グロピウスを加え四大巨匠とみなすこともある)。フランク・ロイド・ライトの20世紀建築作品群 

 ■ユニティー・テンプル

屋根はフラットで、外壁には ほとんど装飾のない、先駆的な「近代建築」としての聖堂であった。中に入ると、そこにはライト独特の幾何学的な装飾がほどこされ、ガラス屋根の下に嵌められたステンドグラスから落ちる光に満ち、まことに美しいインテリアとなっている 。

 ■フレデリック・C・ロビー邸

フランク・ロイド・ライト自身、プレーリースタイル(prairie style)の最高傑作と呼ぶ。近年は世界遺産の申請や子供達に大人気のLEGOブロックで歴史的な建造物を再現した Architectureシリーズ等で商品化もされて折、そのシルエットの美しさが特徴。・・・水平線を意識させるため、屋根が大きく張り出している。これはフランク・ロイド・ライトの故郷であるウィスコンシン州の大草原を表現したものとも言われている。

 ■タリアセン

「タリアセン」とは、建築家フランク・ロイド・ライトが設計し弟子たちとともに建設した設計工房および共同生活のための建築群を指す。

 ■バーンズドール邸(ホリーホック邸)

美術愛好家である富豪バーンズドール夫人の社交場として建てられた邸宅。建築家はフランクロイドライト。夫人は広大な土地に好きなオリーブの木を植え、オリーブの森の上にこの邸宅を依頼しました。ライトは、アメリカの歴史の根源ともいうべきマヤ文明の装飾を借り、マッスとしてのコンクリートの構成に付け加えた

 ■落水荘

ベアランと呼ばれる川にある滝の上に建てられており、リビングにある階段からは、直接、水辺に降りることができるようになっている

 ■ハーバート・キャサリン・ジェイコブス邸

 タリアセン・ウェスト

 ■ソロモン・R・グッゲンハイム美術館

近現代美術専門の美術館ソロモン・R・グッゲンハイム財団が運営するグッゲンハイム美術館の一つ。「かたつむりの殻」とよく形容される螺旋状の構造をもったこの建築物は、中央部が巨大な吹き抜けになっている。見学者は、まずエレベーターで建物の最上部に上がり、螺旋状の通路の壁面に掛けられた作品を見ながら順路を進むうちに自然に階下へ降りるようになっている。美術館施設の概念を根本から覆した作品として、

◆​◆ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエ 「Less is more.」

ル・コルビュジエフランク・ロイド・ライトと共に、近代建築の三大巨匠、あるいは、ヴァルター・グロピウスを加えて、四大巨匠とみなされる。大学で正式な建築教育を受けることなく、地元の職業訓練学校で製図工の教育を受けた後、リスクドルフの建築調査部で漆喰装飾のデザイナーとして勤務。ドイツ工作連盟主催のシュトゥットガルト住宅展に参加し、ベーレンス、ヴァルター・グロピウスル・コルビュジエブルーノ・タウトらと共に、実験的な集合住宅を建設した。バルセロナ万国博覧会で建設されたドイツ館、バルセロナ・パヴィリオンをつくった。ポストモダンの建築家、ロバート・ヴェンチューリは、ミースの標語「Less is more.」をもじり、「Less is bore.」(より少ないことは退屈だ)と皮肉った。

 ■バルセロナ・パビリオン

モダニズムの建築家ミース・ファン・デル・ローエが1929年、博覧会のために設計した施設である。モダニズム建築の傑作の一つとして知られる。1986年に復元され、現在はミースの記念館になっている。トラバーチンの基壇を上がると、広い水面が広がっている。パビリオンの主要部分は、水平に長く伸びる薄い屋根を8本の十字形断面の鉄柱が支える構造である。構造から独立した石・ガラスの壁が自由に配置され、内部・外部にわたって流動的な空間を形作っている。石材はオニキス(縞瑪瑙)、緑色テニアン大理石、トラバーチンと高価な素材が使用されている。中心付近には最も特徴的なオニキスの壁がある。奥のガラスの先に三方をの壁に囲まれた水面があり(屋根はかかっていない)、彫刻家ゲオルク・コルベによる裸婦像が置かれている。

基壇の上に立つ8本の柱による規則的な構成はシンケルに代表される古典主義を思わせる。また、流動的な空間にはフランク・ロイド・ライトの、抽象的な構成にはデ・ステイルの影響が指摘されていた。博覧会施設という性格上、自由に設計されたものであるが、同時期の住宅作品トゥーゲントハット邸(1930年)との共通点も多い。両作品の空間構成は後のユニヴァーサル・スペースにつながっていった。

 ■ファンズワース邸

ミース・ファン・デル・ローエの〈ファンズワース邸〉とフィリップ・ジョンソンの〈グラスハウス〉はよく似ている。だが細部を見るとドラマチックな違いがある。どちらもワンルームの平面を持つガラスの箱のような建築であり、規模もほぼ同じ、また、個人所有の広大な敷地に立っている。だがジョンソンのグラスハウスは地面に接しているのに対し、ミースがエディス・ファンズワースのために設計したファンズワース邸は高床構造だ。グラスハウスが構造体とガラスフレームの境界を曖昧にしているのに対し、ファンズワース邸は構造を明確に見せている。また前者は黒色、後者は白という違いもある。「ユニバーサル・スペース」という壮大な概念を表現するための一作品であった。

 ■シーグラム・ビルディング

ニューヨークのミッドタウンに建っている超高層建築物である。1958年に、シーグラムのアメリカ本社ビルとして、ミース・ファン・デル・ローエフィリップ・ジョンソンの設計によって建設された。このビルや、インターナショナルスタイルという様式はアメリカの建築に大きな影響を与えた。この様式の特色のひとつは、建物の構造を外に出して表現することだった。ミースは骨組みなど構造材は外部から見えたほうがいいと考えた。セットバックを避けるために敷地の半分をオープンスペース"プラザ"として開放し、ブロンズフレームトパーズグレイのガラスで構成されたシンプルなガラスの塔がすっくりと建つ姿は、当時の建築界だけでなく社会にも大きなインパクトを与えた。

 ■トゥーゲントハット邸 

1928年から1930年にかけてチェコスロバキアブルノに建てられた邸宅である。ドイツモダニズム建築ミース・ファン・デル・ローエの代表作のひとつと見なされており、チェコスロバキアの機能主義的建築物の中では、最重要にして最も美しいものである。トゥーゲントハート邸とも表記される。代建築の五原則の一つである「自由な平面」の概念を発達させた。それは、機能に結び付けられた空間(食堂、書斎、サロンなど)が、仕切られることなく決定されるというものである。建物は鋼鉄製で、バルセロナ・パビリオンのように、柱は十字形でステンレスの幌が付けられていた。それは動く壁を避けてより自由な空間設計を可能にするものであった。

​◆モダニズム建築の4大巨匠

◆◆ヴァルター・グロピウス

近代建築の四大巨匠(ル・コルビュジエフランク・ロイド・ライトミース・ファン・デル・ローエと共に)の一人とされる。世界的に知られた教育機関(学校)である「バウハウス」の創立者であり、1919年から1928年まで初代校長を務めた。グロピウスは著書『国際建築』(1925年)で、造形は機能に従うものであり、国を超えて、世界的に統一された様式をもたらすと主張した。1926年の「バウハウス校舎」は、まさにその実例となることを意図して設計された。1932年フィリップ・ジョンソンの企画によりニューヨーク近代美術館インターナショナル・スタイル(国際様式)の展覧会を企画し、建築界の主流になっていった。アメリカ移住後のグロピウスの実作はそれほど多くないが、大学教育を通じてアメリカにおけるモダニズム建築の普及に影響力を持った。超高層ビルにおけるインターナショナル・スタイルの普及は、ミース・ファン・デル・ローエやSOMの手にゆだねられた。ハーバード大学建築科長として活躍したが、アルマ・マーラーとのスキャンダルでも知られた。

​◆様々なモダニズム建築

 

チャールズ・イームズ

建築家映像作家である。妻のレイ・イームズと共に積層合板プラスチック金属といった素材を用いて、20世紀における工業製品デザインに大きな影響を与える作品を残した。イームズに大きな影響を与えた人物にフィンランド人の建築家、エリエル・サーリネン(後にその息子でエーロ・サーリネンとはパートナーとなり親友となる)がいる。1936年、エリエル・サーリネンの招待で、イームズは妻子と共にミシガンへ引っ越し、「クランブルック美術学院」に奨学生として入学。後年には同校でインダストリアルデザイン学科長として教壇に立つ。イームズの入学申請当時、同校の建築・都市計画コースでは、新入学生は前もって設計課題の決定と、そのための情報収集を行っておくことを必須としており、彼はセントルイスのウォーターフロントに興味を持っていたという。

1940年、イームズは、エーロ・サーリネンとともに、ニューヨーク近代美術館開催の「オーガニック家具デザイン」コンペに応募する。成型合板を使った椅子、棚、机を出品し6部門中2部門で優賞した。彼らの作品は、アルヴァ・アールトの開発した木材成型の新技術を見事に利用し、3次元の立体曲線によって背面と座面、肘掛けを継ぎ目なしで繋いだ物であった。

イームズ邸

20世紀のデザインに最も大きな影響力を与えたチャールズ&レイ・イームズ夫妻は、モダン住宅の多くに欠かせない数多くのアイコニックな家具を制作した。しかし、二人の仕事は家具だけにとどまらない。自邸兼アトリエは、彼らのデザインした椅子が家具デザイン界に与えたのと同じくらい大きな影響を建築界に与えたのだった。普遍性と個性の両方を見事に表現した作品であり、鉄骨とガラスでできたモダン建築が、カラフルで創造的で、しかも住みやすいものになりうることを証明した住宅である。

リチャード・ノイトラ

20世紀中頃に活躍したオーストリアユダヤ系ドイツ人のアメリカの建築家ドイツ語読みではリヒャルト・ヨーゼフ・ノイトラ。リチャード・ノイトラは、1892年、オーストリア、ウィーンに生まれる。ユダヤ人の家系で、生家はフロイト家とも交流があったという。ウィーン産業技術大学ワーグナー校に入学。アドルフ・ロースオットー・ワーグナーの元で建築を学び、一時はドイツのエーリッヒ・メンデルゾーンのスタジオに在籍した。その後スイスに渡り、当地でグスタフ・アマンに造園を師事し、このためしばしば邸宅設計に加え、みずから庭園のデザインも行っていた。1921年にはドイツ・ルッケンヴァルトで緑地計画を含んだ都市計画にも取り組んでいる。

リチャード・ロジャース

イギリス建築家。リバーサイド男爵(Baron Rogers of Riverside)という一代貴族の位も持つ。彼の建築はモダニズム建築の影響を受けた機能主義的なデザイン、およびハイテク志向の建築デザインで知られている。イェール大学でロジャースは同じく学生だったノーマン・フォスターと知り合い、イギリスに帰った後でフォスターおよび自分たちの妻(スー・ロジャース、ウェンディ・チーズマン)の4人の建築家とともに「チーム4」という建築の実験集団を結成し、ハイテク志向・工業志向のデザインで評判を得た。1967年にチーム4が解散した後、1971年、ロジャースはレンゾ・ピアノと組んでパリのアートセンター・「ポンピドゥー・センター」のコンペで勝利した。ポンピドゥー・センターは、以後のロジャースを特徴づける、建物の内部空間をすっきりさせるため、水道管冷暖房ダクト電線管電線ダクト階段など建物の共用施設をすべてむき出しのまま建物外部にさらし出す様式を確立させた作品であった。ポンピドゥー・センターは現在でこそパリのランドマークの一つとされ、高く評価されているが、建設当時はまるで化学工場のような外見に賛否両論であり、口さがない評論家らは内部を外部にさらけ出した姿を「内臓主義(bowellism)」と呼んだ。以後、ロイズ・オブ・ロンドン本部ビルなど、同様の傾向の建物を多く設計している。

ポンピドゥー・センター

ロイズ・オブ・ロンドン

グレーター・ロンドン・オーソリティ

■ミレニアム・ドーム

​◆フランク・ゲーリー

アメリカ合衆国ロサンゼルスを本拠地とする、カナダトロント出身の建築家。現在、コロンビア大学建築大学院教授。イェール大学でも教鞭を執っている。ハーバード大学デザイン大学院で都市計画を1年間学んだ。その後、ロサンゼルスに戻り、ペレイラ&ラックマン事務所を経て、大学時代に働いていたヴィクター・グルーエン事務所に所属する。グルーエン事務所には1960年まで所属し、住宅から商業施設、オフィス、複合施設など幅広く設計を手がけた。1978年より世間の注目を集めるきっかけになったのは、皮肉にもサンタモニカの自宅の安価なリノベーションであった、「ゲーリー自邸」である。その後、脱構築主義建築の旗手とみなされるようになり、建築界のノーベル賞と呼ばれるプリツカー賞高松宮殿下記念世界文化賞を含む、高い評価を受ける作品を数多く発表するようになる。彼はソフトウェア技術にも精通し、モデリングと構造解析を行う航空力学・機械設計向けソフト「CATIA」を建築に適用しつつ、複雑な形態を構造的に解決している。同時に、ファサードに用いられるチタンパネルの枚数など、施工に必要な部材の具体的な数値・量までもが割り出される。ビルバオ・グッゲンハイム美術館などは、その技術を駆使した設計の一例である。2002年には、ゲーリーが設計に用いるこれらの技術をビジネス化するため、Gehry Technologies社が設立された。

ビルバオ・グッゲンハイム美術館

■ウォルト・ディズニー・コンサートホール  

フィッシュ・ダンス

ノーマン・フォスター

イギリスマンチェスター生まれの建築家フォスターの名声を高めたのは1985年に完成した香港の『香港上海銀行・香港本店ビル』であった。建物を支えるために通常の柱や壁を使わず、建物の外側に鋼鉄フレームによる太い構造をむき出しにさせ、このフレームで超高層ビルを支えることに成功した。この記念碑的なハイテク建築の後、1991年ドイツフランクフルトコメルツ銀行本店ビルではエコロジカルな超高層ビルを実現させた。300mの超高層ビルを貫く吹き抜けのアトリウムを中央に作って周りに柱のないオフィス空間を配し、さらにビルのフロアは四つから五つに分節され、その間に日光と緑のある「スカイ・ガーデン」が挟み込まれた。スカイガーデンの窓を開閉することにより、新鮮な外気が各ガーデンからアトリウムを通ってオフィスの隅々にまで行き渡る自然換気が実現された。超高層を支える構造体、換気や冷暖房などのエネルギーを無駄遣いしないエコロジカルで快適なオフィス空間という手法は、マレーシアペナンのMBFタワーやロンドンのロンドン市庁舎ビル、セント・メリー・アクス30番地(スイス・リ本社ビル)など、後のビルでも使われている。

フォスターの建築デザインは当初スタイリッシュで、機械のような形状のハイテク志向のものであったが、次第にそこから離れ、より崇高でより受け入れられやすい鋭いモダニズム建築へと移っていった。

■香港上海銀行・香港本店ビル

ロンドンスイス・リ本社

■ロンドン市庁舎

エーロ・サーリネン

アメリカ合衆国において活躍した建築家、プロダクト・デザイナー。フィンランド人。多くの建築物や家具を手がけたが、シンプルで印象的なアーチ状構造を多く作品に取り入れていることで知られている。1948年ミズーリ州セントルイス市に西部への国土拡大と開拓を記念して建設される国立公園、ジェファーソン・ナショナル・エクスパンション・メモリアルの主要部となる記念碑のデザインコンペの優勝案『ゲートウェイ・アーチ』によってであった。エーロはまだ無名で、コンペの賞は誤って父エリエルに贈られた。高さ192m、幅192mに達する巨大なアーチは設計に難航したが、1963年に着工、1965年に竣工し、セントルイスおよび西部開拓のシンボルとして親しまれている。1950年の父の死後に事務所名を改称した。ゼネラルモーターズの技術センター、MITクレスゲ・オーディトリアム、特に有名なジョン・F・ケネディ国際空港TWAターミナルビルTWAフライトセンター)など、コンクリート・シェル構造を用いた流れるような曲面の表現主義的なスタイルの建築で一世を風靡した。彼は建築の中の内装や家具デザインも手がけており、チューリップチェアに代表される、その曲線を用いた未来的なデザインも20世紀中期を代表するものである。また、彼は自らが審査委員を務めたシドニー・オペラハウスの建築設計競技において、落選案の中からヨーン・ウツソンの案を強く推し、これを最終的に優勝させたことでも知られる。

■セントルイス、ゲートウェイ・アーチ

■JFK空港のターミナル5

■クレスゲ・オーディトリアム

◆ヘルマン ヘルツベルハー

1958年デルフト工科大学を卒業し、同年アムステルダムで事務所を開設する。’59年オランダ「フォーラムの編集に携わり、’65年アムステルダム建築アカデミーで教え、’70年デルフト工科大学教授となる。彼の作品は人々の生活を抱え込み、なお一層豊かな空間として息づくたくましさがある。

■セントラル・ベヒーア

グリットシステムは自部署建築や工場など機能的な空間単位を機能的に反復することを要請される建築。2重グリットシステムで極めてアクロバティックな設計をしている。広い格子は執務室、狭い胞子は設備スペースと動線空間が設けれらている。

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