全国ケンコミ建築設計研究所
建築の基本要素の概念
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全国ケンコミ建築設計研究所
世界建築史Ⅲ
多様社会(建築家中心の建築)
ポストモダニズム建築 脱構築主義建築 還元主義建築
~ 第4 建築の始まり ~
第2章 ハイテク建築
テクノロジーがそのままデザインとして表面に現れている建築のこと。
構造表現主義ともいわれる。1960年代から70年代にかけて、今までは技術的に建てることのできなかった建築が、最新の構造技術を用いることで建築可能になり、次々と世の中に登場し始めた。 構造を前面に出すスタイルのルーツは、ブルータリズムにあり、その中心人物だったスミッソン夫妻の影響を受けた、ジェームズ・スターリング、リチャード・ロジャース、ノーマン・フォスター、ニコラス・グリムショウらによってこのムーブメントは牽引された。
ネーミングは、デザイン・ジャーナリストのジョアン・クロンとスザンヌ・シュレシンの共著『High Tech: The Industrial Style and Source Book for the Home』(1978)に由来する。 80年代からはポストモダン建築との区別が難しくなり、ハイテク建築から生まれた多くのテーマやアイディアは、徐々にポストモダン建築に吸収されていった。
<ハイテク建築の三大巨匠>
リチャード・ロジャース、ノーマン・フォスター、レンゾ・ピアノが有名。
◆◆エーロ・サーリネン
フィンランドの建築家エリエル・サーリネンの子。ヘルシンキに生まれ、13歳のときアメリカ合衆国に移住。ミシガン州のクランブルック美術大学で教える父の講座に学び、在学中にチャールズおよびレイ・イームズと知り合った。彫刻を学ぶためパリへ留学した後イェール大学建築学科に入学。1934年、イェール大学で建築学の学位を取得し卒業。大学から奨学金を得て2年間のヨーロッパ旅行へ出かけた。
1937年、父エリエルと共同で建築設計事務所を設立。1950年にエリエルが逝去するまで勤め、数々の設計を手がけた。1940年にはチャールズ・イームズとともに、ニューヨーク近代美術館開催の「オーガニック家具デザイン」コンペに応募する。成型合板を使った椅子、棚、机を出品し6部門中2部門で優勝した。1941年からは兵役に就き、アメリカ戦略局の建築技術者として働いた。
彼が注目を浴びるようになったのは、1948年、ミズーリ州セントルイス市に西部への国土拡大と開拓を記念して建設される国立公園、ジェファーソン・ナショナル・エクスパンション・メモリアルの主要部となる記念碑のデザインコンペの優勝案『ゲートウェイ・アーチ』によってであった。エーロはまだ無名で、コンペの賞は誤って父エリエルに贈られた。高さ192m、幅192mに達する巨大なアーチは設計に難航したが、1963年に着工、1965年に竣工し、セントルイスおよび西部開拓のシンボルとして親しまれている。
1950年の父の死後に事務所名を改称した。ゼネラルモーターズの技術センター、MITクレスゲ・オーディトリアム、特に有名なジョン・F・ケネディ国際空港のTWAターミナルビルなど、コンクリート・シェル構造を用いた流れるような曲面の表現主義的なスタイルの建築で一世を風靡した。彼は建築の中の内装や家具デザインも手がけており、チューリップチェアに代表される、その曲線を用いた未来的なデザインも20世紀中期を代表するものである。また、彼は自らが審査委員を務めたシドニー・オペラハウスの建築設計競技において、落選案の中からヨーン・ウツソンの案を強く推し、これを最終的に優勝させたことでも知られる。
彼は1961年、51歳で脳腫瘍のためミシガン州アナーバーで亡くなった。ゲートウェイ・アーチをはじめ多くの未完成のプロジェクトが残されたが、彼の下で働いていた建築家ケヴィン・ローチの設計事務所、ケヴィン・ローチ・ジョン・ディンケルー・アンド・アソシエイツが多くを完成させた。作品ごとにその作風を変えることから、生存中はしばしば建築界の権威から無視され嘲笑の的にもなったが、今日では20世紀のアメリカを代表する巨匠の一人として数えられている。
■TWAターミナル(JFK空港内)
遠くから見ると美しい。形がとてもチャーミングだ。 白い屋根とガラスの深い色をした反射面の対比がとても良いという事であった。 ガラスの反射面が美しくなければ、 TWAターミナルは、白い屋根が面白い建物というだけで終わったかも知れない。 しかし、この反射面が全体に落ち着きと品格を与えている。 残念ながら全体写真を撮り忘れた。 でも全体は色々な本に載っていて有名だから、それで許して頂きたい。屋根のコンクリートシェルは、一様ではない。 シェル間の切れ込みスリットは不規則に分散し、 中から見ると外形が全く想像できない。 シェル間の隙間はトップライトとすると共に、構造表現をダイナミックにしている。「ニューヨーク摩天楼都市の建築を巡る」ではこの作品を表現主義的作品と言っていたが、 外を見た限りではすごくモダンな感じがして、私の持つ表現主義というイメージからはかなり外れていた。 確かに曲線を多用していて、写真で見たかぎりでは、形態が個人の内面の発露であるかの如くにも見える。 しかし実物を見ると、後期ライトの建築に見られるモダンな「有機的」曲線に近い感じがしたのだった。しかし中に入って印象は一変した。 屋根シェルの仕上げは外側は平滑だが、内部はわざとごつごつさせていて、 中と外で全然異なる印象を与えているのだ。 入った途端に何と言うか、いささかおどろおどろしい感じに見舞われたのだった。 私は表現主義映画の持つおどろおどろしさの世界を一瞬想像してしまった。 それを思うと、ちょっとこじつけだが、これを「表現主義的」と言っても納得できるような気がした。内部の構成として、まず注意を引くのがホールの中に置かれた棟と、それをつなぐブリッジだ。 中央にブリッジがあるという事が、全体の構成をまとめるかなめになっている気がした。 このブリッジがなければ全体がうまく構成された感じが生まれなかったであろう。 また、スリットの付け根にちょっとした休憩場所が作られているのが気に入った。 まァ平面図を書いていてこういう場所が空いていれば、 建築の学生だって休憩場所にするだろう。 つまりたいへん自然に出来た空間のようだけれども、 斜めのガラス等のディテールが良くて大変いい感じである。 全体の印象としては、とにかくターミナルとしては小さい。 これで国際線に本当に使えるのだろうかと、他人事ながら心配してしまう。 実際、このターミナルには道路にはみ出した巨大な増築部分があり、 そこにカウンタ等の機能が入っている。 もともとの部分だけではやってゆけなかったという事だ。 増築された庇部分は1978年に別の建築家が作ったものである。AIAのニューヨークガイドの中では、 この建物はすごく感覚に訴える建物であるような書きぶりだった 。 確かに曲線というのは直角より「感覚に訴える」感じがするけれども、 しかしTWAターミナルの曲線は同時に構造の作りだす形態である。 私達は単に扇情的な「訴え」を見ているのではなく、 建物の支え/支えられ方を見ているのである。 最近アメリカではやりのF・ゲーリーの「曲線」より、 こっちの方がよっぽど建物としては「理にかなった」曲線だと思う。
◆◆ギュンター・ベーニッシュ、フライ・オットー
■ミュンヘン・オリンピアシュタディオン
ドイツのバイエルン州・ミュンヘンにある陸上競技場。世界でも数少ない夏季オリンピックのメインスタジアムとワールドカップ決勝戦を両方経験したスタジアムである。建築家ギュンター・ベーニッシュ(Günter Behnisch)と構造家フライ・オットーの設計。 1972年に開催されたオリンピックスタジアムです。
フライ・オットーらはスタジアムだけでなく、屋内競技場(ホール)と屋内プールも設計しており、これらは現役の施設として現在も使われています。また周辺は公園として整備されており、多くの観光客や市民が訪れています。この日は天気も良かったので、園内のカフェでビールを飲みながらランチしました。
スタジアムのメインスタンドは特徴的な吊り構造の屋根で覆われていますが、とても明るく、屋根が掛かっていることをほとんど感じさせません。でも最新のスタジアムに比べるとグラウンドまでの距離も遠く、特にサッカー観戦については少し観にくいかもしれませんね。一方でケーブルを支える支柱はガッシリと迫力ありました。
◆◆カール・シュヴァンツァー
■BMW ヘッドクウォーターズ
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写真
◆◆ヨーン・ウォッツン他
■シドニー・オペラハウス
シドニー・オペラハウス(Sydney Opera House)は、オーストラリア・シドニーにある20世紀を代表する近代建築物であり、世界的に有名な歌劇場・コンサートホール・劇場でもある。オペラ・オーストラリア、シドニー・シアター・カンパニー、シドニー交響楽団の本拠地になっている。
設計者は計画決定当時無名だった建築家ヨーン・ウツソンであるが独創的な形状と構造設計の困難さなどにより工事は大幅に遅れ、1959年に着工したものの竣工は1973年だった。世界で最も建造年代が新しい世界遺産であり、完成後はシドニーのみならずオーストラリアのシンボルとしても親しまれている。シドニー港に突き出した岬であるベネロング・ポイントに位置し、貝殻やヨットの帆を思わせる外観は、シドニー・ハーバーブリッジとともにシドニーを訪れる観光客の定番の撮影スポットでもある。ただし、オペラのオーケストラが小編成なこともあってオペラ公演の録音や録画は盛んではなく、日本ではバレエ公演の映像などが少し紹介されているぐらいである。
◆◆リチャード・ロジャース、レンゾ・ピアノ
■ポンピドゥ・センター
ジョルジュ・ポンピドゥー国立芸術文化センター (Centre national d’art et de culture Georges Pompidou (CNAC-GP); 通称「ポンピドゥー・センター (Centre Pompidou)」) は、パリ4区のサン=メリ地区にある総合文化施設である。1969年に、近代芸術の愛好家でもあったジョルジュ・ポンピドゥー大統領 (1969-1974) が、首都パリの中心部に造形芸術のほか、デザイン、音楽、映画関連の施設および図書館を含む近現代芸術拠点を設ける構想を発表。1977年にヴァレリー・ジスカール・デスタン大統領により落成式が行われた。設計を手がけたのは建築家レンゾ・ピアノ、リチャード・ロジャースおよびチャンフランコ・フランキーニ(フランス語版)である[1]。当初は、デザインが斬新すぎて歴史ある建物が立ち並ぶパリの美観を損ねるなどの批判があったが、レンゾ・ピアノは「いかめしい文化施設のイメージを破壊したかった。これは芸術と人間のこの上なく自由な関係の夢であり、同時にまた、街の息吹が感じられる場である」と語った[2]。
ポンピドゥー・センターは、主に公共情報図書館(仏式1階から3階)、国立近代美術館・産業創造センター(フランス語版)(4階から6階)、映画館、多目的ホール、会議室、アトリエ・ブランクーシ、カンディンスキー図書館および国立音響音楽研究所 (IRCAM) により構成される.
◆◆リチャード・ロジャース
■ロイズ・オブ・ロンドン
建築家によって提供されたテキストの説明。 1977年にレンツォピアノと共にポンピドゥーセンターが完成した後、リチャードロジャースはロンドンにある元のロイドの保険ビルに代わる新しいビルの設計を依頼されました。これは、国際保険のケースを扱っている何百人もの人々の過密状態のため、会社の本社の歴史の中で2番目の拡大となるでしょう。ロイドの建物は1986年に完成し、以前はパリのポンピドゥーセンターの設計で実装されていたロンドンの中世の金融街にハイテク建築の美学をもたらしました。1928年以来、このサイトはロンドンのロイドの本拠地になりました。 17世紀にさかのぼる世界最大の保険会社の1つ。 17世紀に創設されて以来、ロンドンのロイドは、イギリス国内からの保険会社から世界規模での事業に成長し、スタッフと顧客をかつてない速度で引き継いでおり、これにはいくつかの拡張が必要でした。最大かつ最も目立つロジャーズ。センターポンピドゥーと同様に、ロイドの建物は「裏返し」に設計されています。すべてのサービス機能は内部から削除され、建物の外部に配置されます。これにより、エレベータ、配管、電気設備の交換やメンテナンスが容易になるだけでなく、内部が解放され、各レベルで中断のない活動を可能にするオープンで柔軟な計画が作成されます。オープンな空間計画により、各フロアを分割して新しい興味深いスペースを作成できる間仕切り壁を使用して、インテリアを刻々と再構成できます。
Lloyd’s of Londonの建物は、建物の中心にある60メートルのアトリウムを中心に同心円状に配置された3つのメインタワーで構成されています。各フロアはアトリウムを見下ろすギャラリーとして機能します。ただし、最初の4階だけがアトリウムに通じていますが、残りの部分はガラスパネルで囲まれています。建物全体がステンレス鋼で包まれており、建物はハイテクで、ほぼポストモダンで美的です。外部の機械機能とサービス機能に並置された合理化されたファサードは、その建設の技術的進歩を呼び起こすだけでなく、機能性への建物の主な焦点を表現しています。美学は、その構造に対してほとんど完成していない品質を持っているようです。 Roger’sは、建物の上部にある建築物から装飾的な特徴として建物までクレーンを残しましたが、それらの存在は、現代の美学への洞察と、建築のモダニズムの内部にあるロンドンのロイドの建物の場所を作ることを示唆しています。
◆◆リチャード・ロジャース
■The O2(ミレニアム・ドーム)
イングランドのロンドン南東部グリニッジ半島にある世界最大のドームの旧称。現在は複合施設「The O2」となっている。 ドームは12本の黄色いマストからケーブルによって吊られている。設計者はリチャード・ロジャース[1]。
イギリスのミレニアムプロジェクト(2000年記念事業)[注 1]の一環で「Millennium Commission」が開発の支援をしており、2000年1月1日に「ミレニアム・ドーム」という名称で一般公開された(開会式は前日の1999年12月31日)。このドームは当初、展覧会「ミレニアム・エクスペリエンス」の開催を主な目的としていたが、プロジェクトには収益の悪化など相当な問題があり、同年12月31日、展覧会終了と同時に一時閉鎖となった。
2005年にアンシュッツ・エンターテイメント・グループが命名権を取得(※投資プログラムの一環で命名権は同年、イギリスの携帯電話会社O2に売却)して当ドームの再開発を行い、大規模娯楽施設「The O2」として2007年6月23日に再開業している。
◆◆ノーマン・フォスター
■HSBCビルディング
旧植民地の歴史の中でデリケートな時期に考案された香港および上海銀行本部のブリーフは、「世界で最高の銀行の建物」を作ることへの自信の表明でした。風水ジオマンサーの関与を含む質問と挑戦のプロセスを通じて、プロジェクトは香港の銀行の性質と、それを構築された形でどのように表現すべきかを取り上げました。そうすることで、事実上オフィスタワーが再発明されました。短いタイムスケールで100万平方フィートを超える建築が必要なことから、工場で完成したモジュールを含む高度なプレハブが提案されましたが、下向きと上向きを同時に構築する必要があるため、サスペンション構造を採用し、3マストにスチールマストのペアを配置。その結果、建物の形状は、それぞれ29階、36階、および44階の3つの塔の階段状の輪郭に連結されており、さまざまな幅と奥行きの床が作成され、ガーデンテラスに対応しています。マストの構造により、サービスコアが周囲に押し出されて、10階建てのアトリウムの周りに深い計画の床が作成されました。ミラーリングされた「サンスクープ」は、日光をアトリウムを通して下の公共広場の床まで反射します-週末は活気のあるピクニックスポットになります。広場からエスカレーターはガラスの下の腹部から銀行ホールまで上昇します。これは「銀行の窓口」と考えられていました。
マスト間に架かる「橋」は、建物の規模を視覚的にも社会的にも破壊する高さ2倍の受付エリアを定義します。建物内を移動するユニークなシステムは、高速リフトと受付スペースへのエスカレーターの組み合わせで、村のようなオフィスフロアのクラスターを反映しています。当初から、当行は柔軟性を最優先事項としていました。興味深いことに、長年にわたり、オフィスのレイアウトを簡単に再構成することができ、大きなディーラーの部屋を1つのフロアに組み込むこともできました。建物は設計されました。
◆◆ノーマン・フォスター
■ドイツ連邦議会新議事堂・ライヒスターク
古典主義のクラシカルな建物に戴いたそのドームは遠くからもよく見えて建築脳を刺激した。誰でも予約無し、無料で見学できる。議事堂前には長い列ができ、dem deutsch volke(ドイツ国民)と書かれたエンタプラチュアをコリント式列柱が支える重厚なファサードとその後ろにあるガラスカーテンウォールをしばし眺める。
1時間ほど待たされて入ると、部屋のような巨大サイズのエレベータに乗って屋上へ。そこには半球型のガラス屋根がある。議事堂見学言うと議場を思い浮かべるが、ここではほとんど見えない。ドーム中央部の床はガラス・スカイライトとなって議場を上から見ることはできる。しかし角度が悪く、遠く、暗くその先にあるものが何か(議事堂のはずだが)わからなかった。そのかわりにドームとスロープが用意されていた。温室のような外装ガラスを支える構造体は、模型を拡大したようにスレンダー。中心にラッパ型の巨大な鏡のオブジェが立ち上がり天上を示唆し、斜路が誘う。ドームの内側をなめるように上がるスロープは、外壁から支えられるのではなく逆にドームを支える構造体でもあるという。
ドームの秀逸なデザインに加え、ライヒスタークは環境にこだわるドイツを代表するサスティナブル建築でもある。ビジュアル的にも外装ガラスは突出し換気窓となり、その内側には巨大な可動日除けが見て取られ、ヨットの帆のような覆いは、信じられない大きさで直射日光を遮っていた。
写真
◆◆ノーマン・フォスター
■British Museum - Great Court
南ウイングの2階から大宮の眺め。
クイーンエリザベス2世グレートコートは、一般的に単に大裁判所と呼ばれ、ロンドンの大英博物館の中央四角形です。1990年代後半に、コリン・セント・ジョン・ウィルソンの1970年代のデザインからフォスターとパートナーズのデザインに再開発されました。裁判所は2000年にエリザベス女王によって開かれた。
大英博物館の中心にある中庭は、ロンドンの長い間失われたスペースの一つでした。もともと庭は、19世紀半ばに完成した直後に、丸い読書室とその関連する本の山によって満たされました。このスペースがなければ、博物館は公園のない都市のようでした。このプロジェクトは、その再発明についてです。
年間600万人以上の訪問者を抱える大英博物館は、ルーヴル美術館やメトロポリタン美術館と同じくらい人気があります。しかし、集中型循環系がない場合、混雑し、ナビゲートすることは困難でした。大英図書館の出発は、本の山を取り除き、新しい公共の焦点として中庭を取り戻すきっかけでした。グレートコートは博物館の主要レベルから入り、周囲のすべてのギャラリーを結んでいます。スペース内には情報ポイント、書店、カフェがあります。その中心にあるのは、今や主要な展示スペースである読書室の壮大なボリュームで、その歴史の中で初めてすべての人に開放されています。読書室を囲む広い階段は、一時的な展覧会ギャラリーとレストランテラスにつながります。中庭の下には、セインズベリーアフリカギャラリー、教育センター、小学生のための施設があります。
このすべてを可能にするガラス張りの天蓋は、最先端のエンジニアリングと形の経済の融合です。そのユニークな幾何学は読書室のドラムと中庭のファサードの間の不規則なギャップにまたがるように設計され、太陽の利益を減らすために設計されているガラスのための主要な構造およびフレームの両方を形成する。文化的な広場として、裁判所はまた、大英図書館からコヴェントガーデン、川、サウスバンクへの歩行者ルートに新しいリンクを形成し、博物館の限界を超えて共鳴します。この動脈を補完するために、博物館の前庭は新しい市民空間を形成するために復元されました。グレートコートと一緒に、それはロンドンのための主要な新しいアメニティです。
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◆◆サンティアゴ・カラトラバ
リスボンのオリエンテ駅
ポルトガルの首都リスボンにある鉄道駅である。サンティアゴ・カラトラバの建築は、スペイン・バルセロナのモンジュイックの丘にある「トーラ・ダ・クムニカシオンス・ダ・ムンジュイック」という塔や同じくスペインのビルバオにある「ズビズリ橋」しか見たことないので、大きな建築は初めて観ることになる。恐竜の羽のような骨格を持った構造が生き生きとした外部空間とつながっていた。こちらはバスターミナルがある出口。リスボン滞在の後は、ここからスペインのマドリードにバスで移動した。上階にあるホームは羽が連続するような屋根で覆われている。もう片方の屋根は向かいにあるショッピングセンターに続いている。地下はメトロの駅とつながり、今後はスペインの高速鉄道が延伸してくる予定があり、多くの人が利用するオリエンテ駅はホーム下に大きな空間が広がっている。この大空間は、生物の骨格の構造体に囲まれ非常に美しい。構造とデザインが一体になるカラトラバらしい建築だ。有機的な造形の構造体が、柱のない大空間を実現している。夜になると陰影が出てこれもまた綺麗。
◆◆サンティアゴ・カラトラバ
■バレンシア芸術科学都市
芸術科学都市は、スペインのバレンシアにある科学教育と芸術のための施設の複合体。1957年に大洪水を起こしたため付け替えられ1980年に公園となったトゥリア川の旧い川床に、5つの印象的な現代建築群が連なっている。
バレンシアにある生命・科学・技術・芸術活動普及のための複合施設。印象的な現代建築群によって構成されヨーロッパ最大級の規模を誇ります。現代アーティストの彫刻が並ぶ庭園ルンブラクレにはバレンシア固有の植物種が植えられています。スペインの濃い青空に映えるモザイク状の破砕ガラスはガウディ建築をイメージさせます。巨大なハープの形をした橋に隣接するアゴラはバレンシア・オープンなどが行われる多目的スペース。40,000平方メートルの広さを持つフェリペ王子科学博物館は生物の骨格を思わせるデザイン。周囲に張り巡らされた水が神秘的な美しさを演出し湖の中にいるような錯覚を覚えます。卵形の屋根を持つレミスフェリックではプラネタリウムやアクアリウムの上映を行っています。
斬新な脚の形をした橋の向こうに建つのはオペラハウスのソフィア王妃芸術宮殿。朝から夜まで楽しめるバレンシアの巨大なランドマーク建築です。
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