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ヴァルター・グロピウス Antoni Gaudí i Cornet

ヴァルター・アードルフ・ゲオルク・グローピウスは、モダニズムを代表するドイツ建築家。近代建築の四大巨匠(ル・コルビュジエフランク・ロイド・ライトミース・ファン・デル・ローエと共に)の一人とされる。世界的に知られた教育機関(学校)である「バウハウス」の創立者であり、1919年から1928年まで初代校長を務めた。

【 バウハウス​校舎 】

【 3 MIN GREAT ARCHITECTURE / 3分間の名建築 】Bauhaus Dessau / バウハウス デッサウ校

【 バウハウス​校舎 】

第858回 バウハウス 2017.10.22

【ファグスの靴型工場】

1903年-1907年ミュンヘンやベルリンの工科大学で建築を学んだ。卒業後、ペーター・ベーレンスの事務所に入り(1908年-1910年)、そこでミース・ファン・デル・ローエと出会っている。ドイツ工作連盟にも参加した。1911年の作品、『ファグスの靴型工場』は、後のバウハウス校舎を思わせる鉄とガラスを用いた初期モダニズム建築であった。ファグス工場の設計に大きな影響を与えた建築物は、ペーター・ベーレンス設計のAEGタービン工場であった。クロピウスとマイヤーはそのプロジェクトでともに働いており、彼らの師に当たるベーレンスの作品に対する解釈と批評を示したのである。

どちらの工場も支柱のない角と、最上階までのピアの間に張られたガラスという点では共通するが、タービン工場は角を重厚な要素が覆っていて、内部を区切っている。ガラスのカーテンウォールもまた内部を区切っており、凸状に突き出たピアの間に嵌め込まれて内転びになっている。荷持ちは細くされ、建物は安定性記念碑的建築の外形を備えている。

ファグスではまさに正反対の設計になっている。角は開放され、カーテンウォールが前面に出ている分、ピアはやや凹状に引っ込み、内転びになっている。グロピウス自身はこの転換をこう述べている。「壁の役割は、雨や寒さや騒音を防ぐために架構の直立柱の間に張られた、単なるスクリーンとしてだけに限定される」ファグスの設計をしていた時期に、グロピウスはドイツ工作連盟の出版物用に、アメリカの産業建築の写真を集めていた。それらのアメリカの工場設計は、グロピウスがファグスを設計するときのインスピレーションの源となった。

バウハウス​校舎

1919年に統合され国立バウハウスが開校すると、グロピウスは初代校長となった。当初は総合芸術としての建築教育を目指すものであったが、カンディンスキーらのアヴァンギャルドな造形教育の場となった。『ヴァイマル・バウハウス校長室のインテリア』(1923年)は、モダンデザインによって統一された空間であり、記念碑的作品とされる。世界で初めて「モダン」なデザインの枠組みを確立した美術学校である。学校として存在し得たのは、ナチスにより1933年に閉校されるまでの14年間であるが、当時他に類を見ない先進的な活動は、現代美術に大きな影響を与えた。19世紀までの装飾性に富んだ歴史主義建築などとは異なり、バウハウスの芸術家が生み出したデザインは極めて合理的かつシンプルなデザインであるため、機械的な大量生産に適していた。そして、産業革命により20世紀初頭に巻き起こった、製品の合理性を追求するモダニズムの流れの中で、バウハウスのデザイン手法も派生を繰り返しながら爆発的な拡がりを見せて行った。現代までに、コンクリート製の建築物や、IKEAなどの普及品の家具のデザインや、ユーザーインタフェースのグリッドレイアウトやフラットデザインなど、多数の製品にバウハウスと同様の手法が使われて来ている。その他、ネット社会において、SNS等で多数投稿されている写真自撮りコラージュなども、バウハウスが起源となっているの基礎にもなっている。レゴの元祖と言えるブロック玩具も存在する。従って、バウハウスが発明した合理性を追求したデザインは、現代人が意識する必要がない程に日常化したと言える。

【ジードルング

バウハウス校舎』(1926年)はグロピウスの設計によるもので、著書『国際建築』(1925年、バウハウス叢書第1巻)とともにモダニズム建築の代表作として世界中に知られるようになった。また、デッサウ市の依頼で、郊外に集合住宅(ジードルング)を建設した。ジードルングとは、ドイツ語集落のこと。また、ヴァイマル共和国時代にドイツで建設された集合住宅を指す言葉としても有名。19世紀後半から人口密度の集中、スラムの発生など都市問題が深刻となり、イギリス田園都市構想にも刺激を受け、1920年代にドイツ各地で集合住宅が建設された。これらの計画にはバウハウスなどのモダニズム建築家たちが多く参加し、建築史上は近代建築運動の実践としても評価される。1927年ドイツ工作連盟の主催によりシュトゥットガルト郊外ヴァイセンホーフで住宅展が開催され、様々な実験住宅を建設した。日本同潤会アパート公団住宅にも影響を与えた。2008年にはベルリンの一部がベルリンのモダニズム集合住宅群として世界遺産として登録された。

パンナムビル

ハーバード大学に招かれ、アメリカに赴いた。ここでI.M.ペイフィリップ・ジョンソンらを育てた。また、共同設計事務所TACを設立。超高層ビルパンナムビルなどを設計した。メットライフビル  は、ニューヨークパーク街200号にある超高層ビル。かつてパンナムビル と呼ばれていた。第二次大戦後の母国ドイツにおいても、設計を行う機会を得ている。まず1952年にはベルリンのハンザ地区で行われた国際建築展に参加し、高層住宅を実現させている。さらに、1960年代に、ベルリン南部のノイケルン地区に、グロピウス・シュタットと呼ばれる、集合住宅が建ち並ぶ広さ266haと大規模な郊外住宅地を設計している。パンナムが長年にわたってこのビルを所有しており、ビルの南北の面に「PAN AM」のロゴタイプが、東西の面にはパンナムの商標である地球儀のロゴマークが描かれており、このビルは世界の航空業界をリードしていたパンナムの繁栄の象徴だった。

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