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ル・コルビュジエ Le Corbusier
スイスで生まれ、フランスで主に活躍した建築家。本名はシャルル=エドゥアール・ジャヌレ。モダニズム建築の巨匠といわれ、特にフランク・ロイド・ライト、ミース・ファン・デル・ローエと共に「近代建築の三大巨匠」として位置づけられる(ヴァルター・グロピウスを加えて四大巨匠とみなすこともある)。
ル・コルビュジエは時計の文字盤職人の父エデゥアールとピアノ教師の母マリーの次男として生まれた。家業を継ぐために時計職人を養成する地元の装飾美術学校で彫刻と彫金を学んだが、専門的な大学教育は受けていない。ル・コルビュジエは時計職人の道を進むつもりだったが、当時時計産業は斜陽化しつつあり、さらにル・コルビュジエは視力が非常に弱く、精密な加工を必要とする時計職人としては重大なハンデを背負っていたため、徐々に別の道へ進むことを模索するようになっていった。
美術学校在学中に、ル・コルビュジエの才能を見いだした校長の勧めで、建築家のルネ・シャパラと共に最初の住宅『ファレ邸』の設計を手がけている。1908年にパリへ行き、鉄筋コンクリート建築の先駆者であるオーギュスト・ペレの事務所に、1910年にはドイツ工作連盟の中心人物であったペーター・ベーレンスの事務所に籍を置き、短期間ではあったが実地で建築を学んだ。1911年から半年かけてベルリンから東欧、トルコ、ギリシャ、イタリアを巡る東方への旅へ出た。ラ・ショー=ド=フォンの美術学校で教鞭を執った後、1914年に鉄筋コンクリートによる住宅建設方法である「ドミノシステム」を発表。1917年にパリへ行き、2年ほど鉄筋コンクリート会社に勤めた。1920年にダダの詩人のポール・デルメ、ピュリスムの画家のアメデエ・オザンファンと共に雑誌『レスプリ・ヌーヴォー』を創刊。この頃からル・コルビュジエというペンネームを用いた。1922年に、ペレの下で働いていた従兄弟のピエール・ジャンヌレと共に事務所を構えた。1923年に『レスプリ・ヌーヴォー』に掲載された自らの記事をまとめた著作『建築をめざして』を発表し、世界中の建築家から注目を集めた。この著作の中の「住宅は住むための機械である」という言葉は、彼の建築思想の代表的なものとしてよく引用される。
Los 5 puntos para una nueva arquitectura de Le Corbusier
【ドミノシステム1914年】建築思想
ドミノ・システムは、鉄筋コンクリート造の水平スラブと周囲でそれを支える最小限の柱、各階へのアクセスを可能とする昇降装置を構成要素とした住宅の建設方法であり、その後10年以上にわたりル・コルビュジエの設計手法の基礎をなした。ドミノ・システムのドローイングは特に有名で、近代建築を象徴する役割を担い、ル・コルビュジエはその後も、「住宅は住むための機械である」や近代建築の五原則など、近代建築を世の中に広めるきっかけとなった数々の名言やステートメントを発表するが、ドミノ・システムはつねにその根幹にあったと言える。一方で、ドミノ・システムによって世界中に広まった均質な空間は、幾度となく批判対象にもなり、新しい建築の形式を模索する建築家も多い。ドミノ・システムによって建築物、特に集合住宅の大量生産が可能となり、以降の都市開発へとつながっていきます。
コルビュジェはその後、パリで鉄筋コンクリートを用いる建築会社に勤務したあと、1920年に雑誌『レスプリ・ヌーヴォー』を創刊(この頃から本名ではなくペンネームのル・コルビュジェで活動し始める)。
1923年に『レスプリ・ヌーヴォー』に掲載された自らの記事をまとめた著作『建築をめざして』を発表し、世界中の建築家から注目を集めた。この著作の中の「住宅は住むための機械である」という言葉は、彼の建築思想の代表的なものとしてよく引用される。
コルビュジエの有名な言葉に「住宅は住むための機械」というものがある。建築には機能が備わっている必要がある。水に浮かぶ機能のない船は船ではなく、空を飛ぶ機能のない飛行機は飛行機ではない。それと同様に住むことができない住宅は住宅ではない。
建築について語るとき、コルビュジエはその最小単位である平面を考察する。一枚の平面で内と外を分離することが建築の最初の一歩だ。建築物を見るとき、われわれは光によって立体であることを認識する。立体は平面が光を遮ることで構成される。コルビュジエは「平面は基礎である。平面なしには、意図や表現の偉大さもなく、律動も立体も脈絡もない」と述べている。優れた建築においてそのかたちは偶然にできたのではない。平面の一辺の長さ、曲線を描くときのその円の半径の長さ、円と方形の並びかた、すべては幾何学的に説明される。どの時代につくられたか、あるいは建築史や美術史において、「何々様式」としてカテゴライズされているかなどということは一切、関係がない。
コルビュジエは形体について言及している。船、飛行機、自動車について、そのかたちのありかたを中心に据えつつ、建築へ適用可能な視点を探るのである。機能を満たすためにつくられたある形が、その機能を抜きにしても感動をよぶときがある。ちょうど自然界の生物の形のなかにその進化の過程を想像し、ある種の論理的な理解を得ながらも、それでも驚きを覚えてしまうのと同じように。船、飛行機、自動車などの工業においては、新しい課題を設定してはそれを解くということを繰り返して発展してきた。コルビュジエは建築においてもその発展のために課題を設定しようと試みる。
【300万人の現代都市1922年】都市計画
秩序と合現性を追求するル・コルビュジェは、自分の都市(パリ)とは全く違った景観をもつマンハッタンに限りない憧景と若干の批判を感じながら、壮大な摩天楼と豊かなオープン・スペースに代表される理想都市を構築した。この構想は、1922年のサロン・ドートンヌに発表されたものであり、300万人という人口は、当時のパリ市の規模に相当するものであった。
都市の中心部は、24棟の十字径の60階建物で構成されていて(2.4×1.5Km)、この地区は3000人/haの密度をもつが建ぺい率はわずか5%にすぎない。地区の中央には、鉄道駅や空港(ヘリコブター用の)が立体的にまとめられた交通センターが配置されている。この地区の外周の菱形の部分は、300人/haの密度をもつ、ジグザグ形の8階建てアパート地区(建蔽率15%)であり、さらにその外周には、独立住居からなる田園都市が配されている。これら3地区で構成される矩形市街地には、広大な公園が貫入し、公園の中心部の間には、各種公共施設が配置されている。交通センターを中心として東西南北4方向に走る主要道路はすべて高架であり、工場ゾーンは市街地と緑地で隔てられている。
【ヴォアザン計画1925年】都市計画
ヴォアザン計画は1925年にパリで開催された現代産業装飾芸術国際博覧会場内のエスプリ・ヌーヴォー館で発表された。ル・コルビュジエの提案がシトロエンとプジョーから丁重に断られたのち、ヴォアザンは街なかを高速道路が走るこの都市計画を興味深く見守っていた。この計画は、3年前に制作した「300万人の現代都市計画」をパリ向けに翻案したもの。コルビュジェは「パリのヴォアザン計画は二つの本質的な新しい要素を含んでいる。一つはビジネス街でもう一つは住宅街だ。住宅街はピラミッド通りからシャンゼリゼのロータリーまでとサンラザール駅からリヴォリ通りまで広がる。かつては密集して中産階級の住居があり今はオフィス街になっている地区のほとんどは取り壊す」といった。
ル・コルビュジエは街の中心に巨大な広場を設けた。もともとの構想では駅で、その上にエアポートが配置されていた。この都市計画の幹線道路は東から西に走っている。高さ200メートルの十字断面のオフィスタワーが、どれもみな同じ形で等距離にセバストポール通りの両側に左右対称の[形式的・視覚的要素(線、形態、色彩など)を重視する]フォルマリズムの構図に従って建てられる。そして、緑地の中央には凸凹型の高さ約50メートルの集合住宅が建てる。ル・コルビュジエ流の都市は放射環状型ではなく線形状だ。完全に型(かた)通りの共同生活を称賛するこの都市計画は、彼自身によって他のさまざまな作品においても繰り返し用いられることになる。
ヴォアザン計画は、その後の都市計画研究の基礎をもなすもので、ル・コルビュジエが1931年1月から1934年12月にかけて毎月のように雑誌に掲載し、後に彼の著作『輝く都市』(副題「機械文明のための都市計画の教義の諸要素」)にまとめられた記事のなかで彼の都市計画思想が展開されていく。345ページのこのテキストはこの都市計画家の著作の核心であり、彼が現代建築誌に自費出版した。
この展覧会で異彩を放ったのは、装飾的とは言い難い、モダニストであるル・コルビュジエが手がけたエスプリ・ヌーヴォー・パビリオンと、構成主義者のコンスタンチン・メーリニコフが設計したソビエト連邦のソビエト・パビリオンであった。これらの館にも家具や絵画は展示されていたが、建物自体も展示品もより簡素でより前衛的であった。コルビュジエとメーリニコフの装飾を排した建築は、批判と絶賛を同時に浴びた。批判の声は、これらの建物がリュールマンの「コレクショヌール館」や装飾芸術家協会の「フランス大使館」などと比べ、あまりにも「むき出し」であることに集中した。
コルビュジエのエスプリ・ヌーヴォー・パビリオンは白い箱型の建物で、壁面には大きなガラス窓と四角い「穴」があった。中には大きな窓のある真っ白な吹き抜けの居間や寝室、台所などがあり、「穴」は居間に連続して設けられた、同じ屋根の下にある半屋外のテラスを外から見た姿だった。装飾はなく幾何学的形状しか用いられていないが、その分建物を外から見た際の凹凸や内部空間の多様さで表情が与えられていた。このパビリオンはモダニズム建築の簡素さだけでなく、コルビュジエの唱える幅広い思想や理論がこのパビリオンに結集していたことが今日でも注目される。「エスプリ・ヌーヴォー」(「新思潮」)は彼が1920年に創刊し建築思想に関する論文を掲載した雑誌の名である(これらの論文は1923年に著書『建築をめざして』へとまとめられた)。館内では「ヴォアザン計画」(Plan Voisin)が展示された。同一の形をした高さ200mのガラス張りの摩天楼群と、低層の長方形のアパートが規則正しく並ぶ街並みにより、建物が密集したパリのセーヌ川右岸一帯の市街地を置き換えるという都市計画であった。後に「輝く都市」へとつながったこの計画は、パリでは実現することはなかったものの建築界に大きな影響を与えた。またこのパビリオン自体も一戸建てを構想したものではなく、一単位分であり、これと同じものを多数横に並べて四段に積み、一街区分のアパートを構成する計画だった。このパビリオンは、彼のより大きな都市計画の中の、アパートの一単位分だけが実現したものである。
【輝く都市1930年】都市計画
輝く都市は、モダニズムの建築家、ル・コルビュジエが提唱した理想都市の構想である。
ル・コルビュジエは、人口過密で環境の悪化する近代都市を批判し、300万人の現代都市(1922年)、パリのヴォアザン計画(1925年)、輝く都市(1930年)などの計画案を発表した。1933年にCIAM(近代建築国際会議)で採択された「アテネ憲章」は、輝く都市の理念に沿ったものであった。高層ビルを建設して空地(オープン・スペース)を確保し、街路を整備して自動車道と歩道を分離し(歩車分離)。それに基づき都市問題の解決を図ろうと提唱している。
ル・コルビュジエの思想は、当時のフランスにおいて異端的なものであり、ほとんど受け入れられなかったが、マルセイユをはじめとする各地に建設されたユニテ・ダビタシオン(1952年)は、「輝く都市」論の実践の一つであった。また、ブラジリアなど各国の都市計画の理念に大きな影響を与えた。
建築家たちが集まり都市・建築の将来について討論を重ねた国際会議。モダニズム建築の展開のうえで大きな役割を担った。1928年に始まり、1959年までに各国で11回開催された。建築においてすべての主要領域(ランドスケープ、都市計画、工業デザイン、その他多くを含む)に焦点を当てたモダニズム建築の原則を広めるのを目的とする。
第1回1928年(スイス) 建築家24人が参加
第2回1929年(ドイツ)「生活最小限住居」
第3回1930年(ベルギー)「配置の合理的方法」
第4回CIAM マルセイユからアテネ往復の船中で開催された
第5回1937年(フランス)「建築の工業化」。
第6回1947年(イギリス)
第7回1949年(イタリア)
第8回1951年(イギリス)「都市のコア」
第9回1953年(フランス) チームXが結成された(後にCIAMの批判勢力になる)。
第10回1956年(ユーゴスラビア) CIAMの実質的崩壊とされる
第11回1959年(オランダ) チームXによってCIAMは正式に整理解体された
CIAMは近代建築の規則を定形化したというだけでなく、世界を改善するための経済的、政治的手法として、建築のデザインを取り入れたという観点でも、建築業界のみならず大きな影響を与えた。特に32年の第4回会議で定められたアテネ憲章は、世界中の都市計画に多大なる影響を与え、機能主義に対する批判を受けることにもなる。56年ユーゴスラビアのドブロヴニクにて開催された第10回会議で、アリソン&ピーター・スミッソンを中心とした若い世代の建築家グループ、チームXが、機能主義的な建築や都市計画の批判から、動的な建築・都市計画を提唱するなど、内部分裂によってCIAMは事実上解体した。CIAM設立の主要メンバーであったル・コルビュジエは、その前年に会議で英語が使用される機会の増加などに不満を示して脱退している。
【チーム・X】
国際近代建築会議(CIAM)で集まり、アーバニズムへの教義的なアプローチに挑戦することによってCIAM内で分裂を引き起こした建築家およびその他の参加者のグループ。
彼らはCIAM アテネ憲章に反するアイデアを発表し、 都市部はさまざまなレベルの複雑さのコミュニティで構成されていると述べ、それぞれが全体として扱われるべきだと強調した。このすべてをグラフィカルに説明するためパトリック・ゲデスが1909年に示したバレーセクションの適応を準備して各都市の規模( 市 、 町 、村や集落)が異なる生息地を形成し、異なる密度で開発する必要があることを指摘した 。
グループのさまざまなメンバーが、 伝統的な要素に代わる現代的な代替品を見つけようとして、プラットフォーム通り( 通りデッキ )のアイデアをさまざまな方法で開発。 グループメンバーのほとんどは、ネットワーク( web )、ステム( stem )、 クラスター ( cluster )または組織化されたkasbahなど、同様のメタファーを使用してプロジェクトを解説していったのである。
サヴォア邸はモダニズム以前の装飾的で重厚な西洋的伝統建築とは大きく異なり、当時では新しい素材であった鉄筋コンクリートを使用し、ドミノスラブと柱で支えており、梁は存在しない。ピロティを使うことにより、居住部分がまるで空中に浮かんでいるかのような印象を与え、水平連続窓はたっぷりと光を取り込むことで室内を明るくし透明感を与え、室内を明るくするだけでなく、時間とともに移り変わる日光の色が室内に映えるようにも設計されている。
建築だけでなく、家具もまたサヴォア邸の雰囲気にあうようにデザインされており、ル・コルビュジエの傑作ともいわれるコルビジェ・チェアが多数置かれている。
近代建築の五原則は、近代建築の原則とされているが、 正確には「新しい建築の5つの要点」である。
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ピロティ (les pilotis)
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屋上庭園 (le toit-terrasse)
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自由な設計図 自由な平面 (le plan libre)
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水平連続窓 (la fenêtre en bandeau)
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自由なファサード 自由な立面 (la façade libre)
からなる。 クック邸で実現され、サヴォア邸でより完成度の高いものとして実現された。
ユニテ・ダビタシオンは、ル・コルビュジエが設計した一連の集合住宅。Unité d'Habitationは、フランス語で「住居の統一体」と「住居の単位」の二重の意味を有する。単に「ユニテ・ダビタシオン」といった場合には、最も有名なマルセイユのユニテ・ダビタシオンを指すこともある。
8階建て、全337戸で、最大約1,600人が暮らすことができる巨大な集合住宅で、1人向けから4人向けまでの23タイプの多様なユニットが立体的に組み合わされている。住戸はメゾネットで、エレベーターは3階ごとに停止する( 現在は各階に停止)。中間階の7階、8階及び屋上には、共用施設が設けられている。7階、8階には、店舗や郵便局等があり、屋上には保育園、体育館、プール等がある。1961年には3階、4階部分の当時空室だった住居を利用してホテルが開業しており、現在でも、一般客が宿泊することができる。 3階には店舗やレストランがあり誰でも利用することが出来る。また、3、4階と屋上テラス(RC)はエントランスの受付で名前を記入すれば誰でも見学が可能。 ピロティはマッシブな造形で、プレキャストコンクリートを多用した打ち放しコンクリートの仕上げも荒々しく、ブルータリズムの傾向が伺える。
住戸間口は3.66メートルとなっているが、各部分の寸法はコルブの人体の寸法を考慮したオリジナルの寸法体系であるモデュロールや黄金比を考慮した設計となっています。
【モデュロール】
ル・コルビュジエが、人体の寸法と黄金比から作った建造物の基準寸法の数列である。Modulorは、フランス語のmodule(モジュール・寸法)とSection d'or(黄金分割)から作ったル・コルビュジエによる第二次世界大戦中に考案した造語である。
ル・コルビュジエは、古代ローマのウィトルウィウス、レオナルド・ダ・ヴィンチの「人体図」(Vitruvian man)、レオン・バッティスタ・アルベルティの仕事などから人体における数学的な比率を見出だし、それを建造物の機能の向上のために利用した。モデュロールは、人体の寸法およびフィボナッチ数列、黄金比に基づく。基本的には、人が立って片手を挙げた時の指先までの高さ(「ヨーロッパ型」の場合226cmとされる)を黄金比で割り込んで行く、という方式である。 ル・コルビュジエはモデュロールのことを「建築や、その他の機械の設計に普遍的に適用できる、人体の寸法に合わせて調和した寸法の範囲」と評している。
ル・コルビュジエは実際にモデュロールを用いて数々の設計をした。ロンシャンの礼拝堂の窓配置、ラ・トゥーレット修道院におけるブリーズ・ソレイユなどのプロポーショナル・レイアウトがその応用例として挙げられる。また、世界中の建築家にも大きな影響を与え、日本でも、丹下健三が日本版のモデュロールを作成している。
ロンシャンの礼拝堂、もしくはノートルダム・デュ・オー礼拝堂は、ル・コルビュジエの設計によるカトリック ドミニコ会の礼拝堂(聖堂)である。
外観
シェル(貝殻)構造を採用しうねった屋根、それを浮かせるように支える巨大な外壁のマッス(塊り)、その厚い壁にランダムに穿たれた小さな開口部から幾条もの光が差し込む内部空間が特徴とされる。とくに正面ファサードはカニの甲羅を形どったとされる独特な形態で、鉄筋コンクリートが可能にした自由で彫塑的な造形を示している。屋根のシェルは東西軸を下端とする中央で下がるカーブを描き、これがそのまま雨水の流れる勾配となって、象の鼻のような形をした雨樋から屋外に設けられた集水桶へと垂れ落ちるようになっている。主要な構造部材は鉄筋コンクリートではあるが、戦争で破壊された時に残された自然石のガレキも厚壁の基盤などに使われている。部位によっては3mもの厚い壁はスタッコで白く仕上げられて、その重さが消されたかのようにも見える。上部に反り返ったその形態により地上からは見えないが、シェル構造によって実現した薄い屋根が壁に仕込まれた柱によって、あたかも壁から浮いているかのように支えられている。内部から見ると、壁と屋根の間は細い(10cm)スリットで仕切られているのが分かる。屋根下面となる天井は無仕上げのまま重量感のあるコンクリートの塊として意識され、白い壁のマッスとの対比が内外の空間を印象づけており、「重い壁を軽く見せ、軽い屋根を重く見せる」というコルビュジェの逆説的な建築技法のひとつの具現となっている。南正面はチャペルに外光を取り込むランダムに配置された開口部をもつ大壁が緩やかな傾斜で上昇し、そしてその左側には曲面屋根を持つ採光塔(下部は小礼拝堂となっている)がシンボリックに配されており、両者の間に設けられたアルコーブが礼拝堂へのエントランスである。
内部空間
巨大な南面の壁に穿たれた小さな開口部には、さまざまな原色ステンドグラスが奥深く嵌め込まれ、そこから差し込む外光の拡散(チンダル現象)によって、礼拝堂内部に極めて神秘的な光の空間が出現する。内部の壁に反射する光は柔らかい。採光塔の上側部から補われる反射外光、そして諸所に配された開口部の効果でチャペル内部は外部と隔絶する程には暗くなく、祈りのための空間として程良い明るさとなっている。入り口を背中にすると北側には対となった小礼拝堂があり、やはり上部は2本の採光塔となっていて、北側からの立面を特徴づける。
祭壇正面の壁上部右側に穿たれた開口部には、この礼拝堂に冠されたノートルダムの名が示すように、ガラス窓に埋め込まれた聖母マリア像が外光をバックに透かして配され、会堂内部を見下ろしている。一段分高い信者会衆席には床タイルが貼られ、コルビュジェによってデザインされた木製のベンチ8列が並べられているが、20人程も座れば満席である。
建築学的評価
コルビュジエがサヴォア邸などで主張していた「近代建築の五原則」に基づく機能性・合理性を重視したモダニズムの表現とは異なり、さらに新しい可能性を追求したものとして、同じ宗教建築の範疇にはあっても少し後に設計されたラ・トゥーレット修道院とは対比的な、コルビュジエ後期の代表作とされる。1950年代に建てられたものではあるが、最初のポストモダン建築だとする評価もある。
ロンシャンの礼拝堂とならび、ル・コルビュジエ後期の代表的作品といわれ、また建築思潮の上でも後期モダニズムの重要な一作品として位置づけられる。ロンシャンの自由な曲線を使って丘の頂上に外観を際立たせた造形とは対比的に、丘の斜面に沿うように建つ外観はむしろ禁欲的で垂直と水平の直線だけの矩形としてデザインされており、斜面の力を顕在化させた力強い建築として構成されている。かなり急な斜面に建っている「ラ・トゥーレット修道院」は、ル・コルビュジエの考え出したピロティと言われる方法をとって床面はきちんと水平になっています。
玄関に面した道から下の方向にどんどん柱が長くなり、最終的には2階分の長い柱が使われている部分があります。コンクリート製のシンプルな外観で、中庭を囲む中空の四角な建物です。
下層階は共同生活のための部屋がいくつか作られ、特徴的なたくさんのガラス窓からは外の光が良く入りとても明るくなっています。上の2階分は居住空間で、ワンルームの簡素な部屋がたくさん作られています。基本的にはコンクリートの灰色の建物ですが、家具や扉、窓枠にカラフルな色がたくさん使われている。教会につながる扉は、まるで忍者屋敷の「どんでん返し」のような回転扉になっていて、祈りを捧げるための厳かな空間と区切りをつけているようです。
建築と数学を学んで、音楽家としても活躍したヤニス・クセナキスが弟子として参加したラ・トゥーレット修道院では、回廊の窓の割付が非常にリズミカルに感じられシークエンスを感じる空間が実現されている。
本館の設計はル・コルビュジエが担当し、彼の弟子である前川國男・坂倉準三・吉阪隆正が実施設計・監理に協力し完成した。なお新館は前川國男(前川國男建築設計事務所)が設計した。本館は、1998年(平成10年)に旧建設省による公共建築百選に選定。2003年にはDOCOMOMO JAPAN選定 日本におけるモダン・ムーブメントの建築に選定され、2007年(平成19年)には「国立西洋美術館本館」として国の重要文化財に指定された。また、前庭・園地は、2009年(平成21年)に「国立西洋美術館園地」として国の登録記念物(名勝地関係)に登録されている。
現在の外壁は建設当時のオリジナルではなく、後に改修したものである。建物の平面は正方形で、各辺に7本ずつのコンクリート打ち放しの円柱が立つ。これらの円柱は、2階では壁から離れて立つ独立柱となっている。1階部分は本来はピロティ(高床)構造となっていたものだが、現在ではガラスの外壁が設置され、1階の大部分が室内に取り込まれている。1階中央部分は、屋上の明かり取り窓まで吹き抜けとなったホールとなっている。1階から2階へは、彫刻作品を眺めながら上れるように、階段ではなく、傾斜のゆるい斜路が設けられている。
2階は、中央の吹き抜けのホールを囲む回廊状の展示室になっている。これは、ル・コルビュジエの「無限成長建築」というコンセプトに基づくもので、巻貝が成長するように、将来拡張が必要となった際には外側へ、外側へと建物を継ぎ足していける構造になっている。本館正面に向かって右側にある外階段は、本来出口として設計されたものだが、実際には一度も使用されず、立入禁止となっている。2階展示室は、内側部分の天井高が低くなっている。この低い天井の上は、自然光を取り入れ、明るさを調整するためのスペースとして設けられたものだが、現在は自然光でなく蛍光灯を使用している。また、2階展示室の北・東・南の3箇所には中3階が設けられ、細い階段が設けられている。ここは小型の作品の展示場として設けられたものだが、階段が狭くて危険であるという理由で、一度も使われたことがない。
阪神淡路大震災がきっかけで建物の基準が見直され、この美術館でも地震への対策が求められ1998年に地下を含めすべてを地盤から絶縁する大規模な免震レトロフィット工事を行った。これは本格的な免震レトロフィット工事としては日本初のものである。これにより、ル・コルビュジエの建築だけでなく、人命と作品も地震から守り、美術館として安全に使い続けることが可能となった。また、前庭の彫刻にも免震台を設置するなど、建築物や芸術作品を地震から保護することに積極的である。
1963年に竣工したこの建築は、1965年に没したル・コルビュジエの最晩年の作品にあたり、近代建築の五原則に含まれるピロティや屋上庭園をはじめ、ブリーズ・ソレイユ(日除け)や打ち放しコンクリートといったル・コルビュジエが多用する要素が採用されている。
一部ピロティ方式が使われていて、1階部分は入り口と少数の部屋を除きコンクリートの円柱が建物全体を支えています。直線的な外観の中に一部曲線を用いて変化が出ていて、色彩面では灰色をしたコンクリートの単純な色合いの中に、カラフルな色の窓枠や手すりなどが彩を添えています。一般的なブラインドカーテンを縦にしたような形の垂直方向が斜めになった壁がたくさん作られていますが、設計者であるル・コルビュジエが好んだとされるブリーズソレイユ(フランス語で太陽を砕くと言う意味)と言う工法で、建物そのものの外壁が太陽の直接光を遮る日よけの役割を果たす仕組みになっています。しかし、この壁の奥は大きな窓になっていて外光は良く入っています。また、階段の踊り場にはガラスブロックを使った壁になっている場所があり、日中の屋内はとても明るくなるような仕組みになっています。
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